いわゆる「保守言論の劣化」について

「保守言論が劣化している」という議論が保守派内部から出ている。特に沖縄の「集団自決」をめぐる教科書記述問題に端を発し、在沖縄米軍兵士の少女「暴行事件」での沖縄バッシングとそれへの保守派の反発に顕著である。
kechack氏はそれを世代間の差異に求めている(「保守言論の劣化と内部糾弾 - Munchener Brucke」)。kechack氏の定義する「古い保守」は冷戦構造を引きずっており、何が何でも在日米軍をかばうという。小林よしのり氏がいう「ポチ保守」に当たるのだろう。冷戦構造が終わった後に保守思想に影響を受けた「若い保守」は冷戦構造に束縛されておらず、在日米軍の犯罪に反発し、左派と共闘することに躊躇がない、という。「古い保守」は劣化したというよりも賞味期限が切れたのであり、「ただ彼らは世の中が右傾化していることを過信して、自らの言説の賞味期限切れに気づかずに腐った飯を出し続けている」という分析は鋭い。
しかしもう一方で冷戦終結後の90年代以降、特に21世紀に入ってから保守思想に影響された「若い保守」にも少なからず沖縄バッシングに加担するものがいる事態も考えなければならないと思う。そこには世代間の差異の他に彼らのバックボーンがあるのではないだろうか。
そして現在の「右傾化」を支えた保守論壇は異なるバックボーンを持つ論者がバックボーンの違いを超えて連帯した。しかし劣化していた左派論壇が衰退した結末を受けて対抗すべき敵を失った保守論壇内部の差異が「保守論壇の劣化」という保守論壇内部からの危機意識となって現れているのではないだろうか。
差し当たり西尾幹二氏と藤岡信勝氏の連帯と喧嘩別れというのは、保守論壇の大同団結とその解体という一連の動きの象徴であるように思われる。
追記
今書いていた記事が全部飛んでしまった。いきなりログアウトされる、ってどういうこっちゃ。
書き直す気力もないのであらすじを。
「保守言論の劣化」という言説が他ならぬ「保守」から出てきたのは、沖縄の「集団自決」をめぐる教科書問題に端を発し、在日米軍による少女暴行事件にいたる沖縄バッシングの文脈においてである。従来「ネット上の保守言論」=「ネット右翼」とひと括りにされてきたが、「媚権派」あるいは「自動政府擁護システム系」の論者が「保守派」から批判されている、という現象なのだ。
媚権派に関してはkechack氏の次の分析が参考になる(「2007-06-18」)。

今の右派には教科書がない。反面教科書として特定アジアや、左翼が存在しているだけである。左翼は政府を批判することが自己目的化しているから、それをアンチテーゼとすれば自動的に親政府的になる。そのような環境の下、右派としてのアイデンティティが確立しないまま政府や与党を支持することが自己目的化した人間が増殖するのである。

西田三郎氏は「自動政府擁護システム系」の人々のことを

彼らは別に誰に強制されるでもなく、特定の誰かを支持するわけでもなく、一生懸命自分の意見を発信しているつもりだけれど、結果としてそれがいつも政府にとって有利な意見になってる、という(笑)

と分析し、さらにその背景として

自然と政府の擁護をしちゃう層、っての行動原理にはやっぱり、思春期に受けた日教組教育への憎悪、ってのがあるんだろうな。気持ちはすごーーーーーーくわかるけど(笑)

「そういえば『自動擁護システム』系の人って自分たちのことを『多数者』だとは考えてないんだよな。『多数者』は皆んなマスコミに踊らされてて、自分たちはそのインチキを見抜ける『賢者』だと思ってる(笑)昔のサヨクみたいに(嘲)」
「ってか、自分たちが『特別』なのは、マスコミやなんやに踊らされる『愚かな大衆』と違って『冷静なものの見方』が出来るからだ、と思い込んでるんでしょ?(笑)オウムみたいに(嘲)」

と分析している(「http://blogs.yahoo.co.jp/nishidasaburou/archive/2008/3/3」)。
私がそれに付け加えるならば、「媚権派」「自動政府擁護システム系」の人々と「昔のサヨク」の共通点であるところの承認要求の強さということであろうか。承認要求の強い、いわゆる青年期思想を持ち続ける人間に、アカデミズムの皮をかぶったプロパガンダ書を渡し、「政治的な理由で教科書には書かれていないが、これが真の歴史である」とか、「馬鹿には理解できないが、これが真の歴史である」とか、「みんなマスコミに洗脳されているが、これが真の歴史である」とか、相手の承認欲求を刺激しつつ仄めかすと、アニメや漫画、小説などの娯楽で培った、善悪2元論によって裏打ちされた陰謀史観が開花して、「『多数者』は皆んなマスコミに踊らされてて、自分たちはそのインチキを見抜ける『賢者』だと思ってる」人々が誕生する。
追記2
「保守言論の劣化」というタームで一つだけ言えるのは、「ネット右翼」というカテゴリーはもはや有効ではない、ということである。小泉政権、特に日韓共催ワールドカップのころから郵政選挙に至る時期には「保守言論」内部に存在した「保守派」と「媚権派」が共存していた。その時期には「ネット右翼」とひと括りにして論じることに一定の意味はあったのかも知れない。しかし今や「媚権派」と「保守派」の亀裂が露呈している。そして「保守派」の人々は「媚権派」の人々を指して「劣化」と読んでいるのだ。しかしそれは実際には「保守言論の劣化」ではなく、もともと劣悪な「媚権派」の思想を保守派が批判している、という図式の方が正しいように思われる。そして私は劣悪な「媚権派」「自動政府擁護システム系」を排除した保守論壇は、左派論壇にとってはむしろ強敵となるように思われる。