チベット問題にこだわるわけーダライ・ラマ14世に敬意を持つー

世界には様々な虐殺問題がある。全てを取り上げていくとそれこそこのブログはほとんど虐殺問題によって埋め尽くされるであろう。パレスチナ問題やイラク問題、東ティモール問題、ダルフール問題、クルド人問題、アルバニアセルビア問題、世に虐殺のタネは尽きない。従って全ての虐殺問題に向き合うのも非常に意義のあることだが、全てをカバーしきれないし、従って必然的に「叙述の主体的契機」によって取捨選択をすることになる。
私がダライ・ラマ14世の「小なるチベット人口が、大なる中国人口のなかへと吸収同化されているのです」という言葉を読む時、私の脳裏によみがえるのは次の言葉である。

太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に山辺に嬉々として暮らしてゐた多くの民の行方も又何処。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一挙一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。

これは知里幸恵の『アイヌ神謡集』の序文である。これに関しては問題とせねばならない点がある。そもそもダライ・ラマ14世の次の言葉と読み比べて時にそれは一目瞭然となる。

昨今のチベットでは、中国政府の見通しのあまさゆえに生まれる数知れない行為によって、自然環境が著しく破壊されています。中国の流入政策の結果、チベットに移住した非チベット人の数は何倍にも増加し、チベット人は、自国にいるにもかかわらず微々たる少数派へと減じています。さらには、チベット語チベットの文化や伝統などチベットの人々の本質やアイデンティティが徐々に消滅しています。小なるチベット人口が、大なる中国人口のなかへと吸収同化されているのです。チベットでは、弾圧が続いています。数えきれないほどの想像を絶する人権侵害、宗教の自由の否定、宗教的問題の政治問題化が増え続けています。これらはすべて、チベット人を人間として尊重する姿勢が中国政府に欠如していることに起因しています。そしてこれが主な国民感情となり、チベット人と中国人との間に差別を生んでいるのです。したがって、私は、そのような政策をただちに中止するよう中国政府に求める次第です。

ダライ・ラマ14世は中国政府に毅然としてチベットの立場を突きつけている。知里幸恵の言葉はダライ・ラマ14世に比べるとはるかに弱い。この背景には『アイヌ神謡集』の出版には金田一京助の手が入っていることを考慮せねばなるまい。
幸恵が旭川女子職業学校に通っていた頃、後輩のアイヌ女性松井マテアルと次のような会話を交わしていたようだ。
幸恵「学校にいくのは面白いかい」
マテアル「うん、面白い。私も、幸恵さんみたいに上の学校にいきたい」
幸恵「そんなに勉強したい?教育なんて、何さ。教育ってそんなに大事なものか。差別されてまで学校にいきないかい?肩身のせまい思いをしても、親がさせてくれるからって上の学校にいきたいの?それよりも、勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。強くなりなさいよ。」
この幸恵の心はアイヌならばだれしもが感じていた矛盾であり、怒りであり、苛立ちであったはずだ。しかし『アイヌ神謡集』の序文においてはそのような面は全く現れていない。
アイヌ文学研究者の丸山隆司氏は『〈アイヌ〉学の誕生ー金田一知里とー』(彩流社、2002年)において次のようにまとめる。

幸恵が〈他者〉の言語によって書きとどめたことを〈他者〉であるものたちが、アイヌである幸恵の言語として、それらを引用することとはどういうことか。しかも、幸恵がそのように書いたことが金田一に、そして、それ以前の〈他者〉=日本人たちがアイヌに就いて書きとどめてきたことの反復であるとすれば、それはどういうことなのか。自らの言語を幸恵というアイヌに語らせることによって、アイヌにとって〈他者〉であるものたちが、その言説の起源がアイヌにあることを装い、自らの言語にあることを隠蔽することではないか。そうであるがゆえに、知里幸恵という固有名詞は、彼らの引用においては不可避なのだ。したがって、彼らこそ、幸恵の《序》文の言説をアイヌ自身が語る「歴史的事実」として引用するものたちなのだ。とすれば、幸恵の《序》とそれをめぐる言説が〈他者〉の言語によって語られてきたこと、そして、その言説が「歴史的事実」であるかのようにして、アイヌアイヌとして刻印する「政治性」を孕んだ、アイヌをめぐる表象であったことをわれわれ=日本人たちは繰り返し確認しておかなければならない。

私はダライ・ラマ14世の力強い言葉を見ると、自らの言葉を奪われ、同化させられていったアイヌのことを考えずにはいられない。
もう一つ私がダライ・ラマ14世に共感する理由は、非暴力主義を貫いている所にある。確かに今のチベットの情勢では非暴力主義は弱いかもしれない(「http://www.excite.co.jp/News/world/20080317130200/20080317E30.059.html」)。イラクにおける米軍に対する、パレスチナにおけるイスラエル軍に対するような「弱者の暴力は容認されるべし」という考えは、左翼である私はある程度持っている。従ってダライ・ラマ14世の「理想」は中国の圧倒的な暴力の前にはあまりにも弱すぎるかもしれない。チベット人が爆弾テロを敢行するのもありだろう。しかしやはり私はダライ・ラマ14世の非暴力主義に共感する。暴力にはさらなる暴力の報復しかない。どっちもどっち、となると世界の共感を得られず、小さな暴力は大きな暴力の前に屈せざるを得ないだろう。世界の大国中国の暴力に対抗できるだけの巨大な暴力装置チベットが持てるとは思わない。私はダライ・ラマ14世の非暴力主義を断固支持したい。