チベット問題を取り上げる「主体的契機」

世の中に人権弾圧問題は数知れずある。それを全て論っていけばきりがない。このブログは人権弾圧問題を取り上げるブログでもなく、本当はここのところ増備されている車両とか、新しく入ったシパリウィニとか、今読んでいる『日本中世のNATION』の感想とか、書きたいことが一杯あるのだ。ここのところ「昭和の鉄道模型をつくる」のネタ書いてないな、とか。
私がチベット問題を取り上げるのは、私自身の関心として少数民族問題があり、その上でダライ・ラマ14世のあり方に感銘を受けたからである。従って私は別に個人ブロガーがチベット問題を取り上げなかったからと言ってそれを問題視するつもりはない。例えば私が「左翼ブロガーよ、なぜチベット問題に沈黙するのか」と吠えたとする。吐いたつばは速攻私に返ってくるだろう。「お前はパレスチナ問題に何か発言したか?トルコによるクルド人問題に何か発言したか?」と。もちろん私は何も言っていない、多分*1。下手をすれば私は単に中国が嫌いなので中国を批判するためだけにチベット問題を取り上げている、という誹りをも免れない。これは非常に恥ずべきことで、人権問題を己の政治的主張のために使っているだけで、極端な話、人権などどうでもいい人と思われては、それはそれで困るのだ。
私が社会民主党日本共産党に注文をつけているのは、彼らが一応反帝国主義の運動をしている、と信じているからだ。彼ら、特にまだマルクス主義を保持しているはずの日本共産党中国共産党帝国主義的行動に対して何らかの反応ができない、というのは、マルクス主義政党としての存在意義にかかわる。「帝国主義」という言葉に引っかかるのであれば「覇権主義」と言い換えても良い。「覇権主義」を批判することはマルクス主義政党の存在意義に関わるのではないか、という提言である。社会民主党マルクス主義を放棄しているのだが、市民派を名乗るのであれば、弾圧を止めて対話を重視せよ、程度の腰の引けた対応でもできるだろう。
繰り返すが、私は個人のブロガーが何を言うか、全く問題とはしていない。逆にそれを気にしすぎるブロガーの姿勢に疑問を感じる。例えばチベット問題で他人を批判する人のクルド人問題やパレスチナ問題など現在進行形の人権弾圧にどのような対応をとってきたのか、それが逆に気になってしまうのだ。私も取り上げたことが多分ないだけに。
結局は私がパレスチナ問題やクルド人問題を取り上げたことがないくせにチベット問題を取り上げたことへの言い訳だ。うん。
ダライ・ラマ14世の「非暴力」主義は、確かに理想論ぽく映るかもしれない。しかし私にはチベットにとっての唯一の現実的な対応策であるようにも思える。中国の暴力に暴力で返しても相手は世界有数の軍事力=暴力を持っている。下手をすれば民族浄化すらやりかねない。わずかに残された抵抗策は無差別テロしかない。無差別テロ以外に圧倒的な暴力機構に打撃を与える術はないのだ。しかし無差別テロはもろ刃の剣である。無差別テロに手を染めることで、少数派は世界の世論すら敵に回してしまう。世界の世論が敵に回れば、民族浄化すら容認されてしまう危機もあるのだ。

*1:調べてみたら本当に何も言っていなかった。