チベット問題をどういう視座で分析するべきかー教条左翼の限界ー

どこからかのリンクで「比較的マシなサヨでもこの程度なんだわなあ/「アリバイ的」ってw 」(「http://c.2ch.net/test/-/asia/1205846520/297」)と言われた。「マシなサヨ」と言われたのは光栄なことだが(笑)、反省すべき点もある。そもそも共産党という既成左翼に「アリバイ的」にでもチベット問題に関する声明を期待した私がバカだった、としか言いようがない。少し考えれば分かることだが、そもそもロシアマルクス主義止揚できていない日本共産党チベット問題を考えることなどそもそも期待するだけ無駄だったのだ。
比較的チベット問題に関する事柄を主張している共産党支部(「ポラリス-ある日本共産党支部のブログ チベット自治区暴動への対応 中国政府の対応は誤り!」)でも「中国政府は、この「暴動」を単なる暴力行為として警察権を行使して取り締まれば済むはずではなかったか? 何故「ダライラマが挑発している」と断定してしまったのか?これでは、「暴動」をますます政治的・宗教的次元にレベルアップさせてしまう結果となる。」と国内問題としてみている。日本共産党の動きが鈍いのは、一つには中国共産党との関係を気にしている、という側面もあるだろうが、そもそも日本共産党の枠組みではチベット問題を考え得る思考は出てこないのだ。
チベット問題について、しばしば*1左派の側から出されていた意見として、チベット中国共産党が入ってくるまで神権政治が行なわれ、少数の貴族による多数の奴隷の支配が行われ、著しい圧制が行われていた、それを中国共産党が解放した、というのがあった。*2今や共産党でも主張しないほどの時代錯誤な教条的な左翼理論である。要するに「民族」というのにこだわるのは反革命であり、まずは階級闘争を闘うべきだ、という理論である。奴隷階級が解放されたのであるから、中国共産党による支配は支配ではない、ということだ。従ってそのもとで漢民族が多数派になり、チベット民族が少数派に転落して、チベット固有の文化や言語がマイノリティに転落して、異民族支配が行われていても、民族の文化の維持は優先順位が低い。その下で行われるマイノリティの抵抗は「テロ」として弾圧される。
これが正当化されるのであれば、アメリカがフセイン体制を倒したのも正しいと言うことになる。もちろん蝦夷地併合も琉球処分日韓併合も同じ理屈で正当化される。それを防ぐために一生懸命にアイヌは「原始共産制社会の心の奇麗な人々」という幻想を撒き散らし、琉球は「非武装の平和国家」という幻想を撒き散らす。朝鮮王朝は王道に基づく理想的な文化国家となる。とんでもない。アイヌにはオッテナーアイヌーウタリという階級が厳然として存在した。ウタリとは奴隷階級である。琉球室町時代には圧倒的な海軍力を保持し、16世紀初頭には奄美諸島先島諸島を併合した。豊臣秀吉が侵略した時の朝鮮王朝は官僚の腐敗が進行し、足の引っ張り合いもひどかった。秀吉軍を圧倒した李舜臣は嫉まれ、失脚している。だから、日本が彼らに支配権を及ぼしたのは一種の「解放」だったとでもいうのだろうか。
この問題を考える際に必要な視点は「帝国主義」概念の組み替えと、少数民族問題としてこの問題を考察することである。これは教条左翼の最も不得手とするところのものである。
帝国主義に関するロシアマルクス主義の理解では「帝国主義」は「資本主義」の最終段階である「独占資本」が市場の確保や余剰資本と投下先として植民地の確保を要求することとなり、世界再分割が行われる。レーニンの分析によって導き出されたこの図式を当てはめて論じると、「帝国主義」は高度に発達した資本主義段階において出現するものであり、社会主義国の中国が行うチベットの併合は「帝国主義」ではなく、むしろ前近代的神権政治からの人民の解放なのである。
このような理解に立てば、チベットで行われる「騒乱」は中国という国内で起こる「暴動」でしかなく、せいぜいバックに「売国奴ダライ・ラマ一派の策動、さらにはダライ・ラマ一派を背後で操る米帝が引き起こした反革命なのである。少数民族というのは、あくまでも階級闘争の背景に遠ざけられ、少数民族の権利を過剰に主張しようとすると、「反人民」というレッテルを貼られるのである。
チベットが「独立」を必ずしも指向するものではなく、中国における高度な自治を行うことを要求する、というのは、教条的左翼には理解できないのだ。「独立」でなければ「国内問題」であり、そこで思考停止する。
私はまずもってこれが少数民族問題であることから出発する必要がある、と思う。そして中国によるチベット併合というのは、第三世界帝国主義の一類型であると考えるべきである。こう考えなければ「ラサで華人虐殺が行われている」というキャンペーンに対抗できまい。あるいはチベット独立過激派の背後に米国がいる、というキャンペーンに対抗できまい。本当にそれが事実であったとして、チベット問題に関する中国政府の対応は批判されるべきなのだ。しかしチベット問題を単なる階級闘争と国内問題の図式でしか解釈できない教条左翼はそこで「どっちもどっち」と考えて思考停止に陥るか、「チベット過激派」の背後にアメリカがいると一方的に非難するかのどちらかになってしまうのだ。
チベット問題を少数民族問題をからめて考えると、その必然の作用として日本国内の少数民族問題について考える視座を設定することにもなるのだ。
追記
少数民族問題でもう一つ問題になるのが、少数民族相互の争い。私は詳細を熟知していないが、次の記事(「回族とチベット族 - 東方不敗の幻想」)をみて考えさせられた。
被抑圧者がさらに抑圧されたものを叩く、という事情は常にある。THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」の中の一節「弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」というのを想起させられるが、「有色の帝国」というのがまさにその類型だ。この東方不敗氏の行動力に敬意を表したい。

*1:チベット」「神権政治」でググったところ、どうも一人の人が主導して主張しているようだ。もう一人みたが、その関係が不明確なので一応これは保留。

*2:同じ人の意見としてエミシ=アイヌというのもあった。現在のアイヌ史研究の段階を押さえていない暴論である。1970年代の新左翼系の著作の影響かもしれない。