北条時輔関係史料 文永4年(1267)9月4日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』9762号)

泥沼化する東大寺東大寺領茜部荘地頭代伊藤行村の訴訟。伊藤行村が東大寺に年貢を滞納していることに対して東大寺六波羅探題に訴え、裁判が始まったところ。
茜部荘の雑掌と東大寺からの文書を受けて伊藤行村も請文を出す。それに対する六波羅探題の伊藤行村に対する御教書。
本文

東大寺美濃国茜部庄雑掌申致新儀非法之由事、別当僧正御文(副重解状)遣之。先度尋下之處、不及陳状云々。何様事哉。不日企上洛、可明申之状如件。
 文永四年九月四日  散位 御判
           左近将監 御判
 地頭代

これは東大寺文書に残っているもので当然案文。正文は美濃国茜部荘地頭代のもとにいっているはず。
8月12日付けで伊藤行村は請文を出してはいるのだが、六波羅探題は陳状を提出せよと迫る。
読み下し

東大寺美濃国茜部庄の雑掌が申す、新儀非法を致すの由の事、別当僧正の御文(重解状を副える)これを遣す。先度尋ね下すの處、陳状に及ばずと云々。何様の事哉。不日に上洛を企て、明らめ申すべくの状件の如し。
 文永四年九月四日  散位 御判
           左近将監 御判
 地頭代

「新儀非法」は当時よく使われた言葉で違法行為のこと。先例を重視する社会では「新儀」は悪いこととされていた。先例となっている年貢を納めない「新儀」である、というわけである。後醍醐天皇が「朕の新儀は未来の先例たるべし」と豪語したのは有名だが、「新儀」に対するマイナスイメージを考えれば、ずいぶん思い切ったことを言ったものだという気がする。
「陳状に及ばず」ということなので、陳状が提出されなかった、ということなのだろう。この時代の裁判は訴人(原告)が「訴状」を出し、論人(被告)が「陳状」を提出、それを三回繰り返す。いわゆる「三問三答」が行われて結審する。その陳状が来ない、と六波羅探題は行村に言っているのだろう。請文を出してはいるのだが、「陳状」が出なければ裁判は進まない。
この御教書を受けて行村が提出した請文もみておこう。ってかとっとと陳状を出せよ、という気もしないではないが、実際には陳状を作成するにも手間ひまがかかるのだろう。
文永4年9月13日「地頭代伊藤行村請文案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』9766号)
本文

同請文
今月四日御教書同十一日到来。謹以拝見仕候了。当別当御房御文并具書等下預了。以今月内、企参上、可明令申之旨、内々御心得候て、可有御披露候。行村恐惶謹言
  九月十三日   左衛門尉行村請文

読み下し

同請文
今月四日の御教書、同十一日に到来す。謹んで以て拝見仕り候おわんぬ。当別当御房の御文并びに具書等下し預りおわんぬ。今月内を以て、参上を企て、明らめ申さしむべきの旨、内々御心得候て、御披露あるべく候。行村恐惶謹言
  九月十三日   左衛門尉行村請文

実際には翌月には陳状が提出される。『鎌倉遺文』9792号文書「伊藤行村陳状案」として東大寺文書に収載されている。次回はまた番外編として伊藤行村の陳状をみていきたい。東大寺の主張に地頭代はどう反論するのか。