北条時輔関係史料番外編 史料目録

前エントリの文永6年9月7日付け「六波羅御教書案」から次の東大寺関係の六波羅探題御教書までしばらく間が開いて、そのあいだに多くの文書と北方探題の北条時茂死去などの事件があった。文書の種類ごとに読んでいくが、一応時間軸に沿って文書名と日付を挙げて置きたい。
10506号文書「美濃茜部荘年貢絹綿送状」(文永6年10月2日)
絹10疋と綿50両の送状だが、3両不足らしい。
10516号文書「美濃茜部荘預所賢舜重訴状案」(文永6年10月27日)
伊藤行村陳状に対する反論。
10528号文書「美濃茜部荘年貢絹綿送状」(文永6年11月15日)
絹20疋と綿100両、延滞分として絹3疋4丈の送状。訴訟は進んでいるが、出すものは出している。ただこれは五両不足とのこと。
10534号文書「美濃茜部荘地頭代伊藤行村重陳状案」(文永6年11月)
預所の重訴状に対する反論。
10539号文書「美濃茜部荘年貢絹綿送状」(文永6年12月7日)
絹20疋と綿200両に延滞分として絹4疋の送状。だんだん量が増えているのは東大寺に譲歩しているからだろう。それでも東大寺から許してもらい無い。
10555号文書「美濃茜部荘年貢絹綿送状」(文永6年12月25日)
絹15疋と綿165両に延滞分として絹五疋。延滞分は増加中。
10556号文書「伊藤行村重陳状案」(文永6年12月)
「第二度」と端裏書にあり。地頭請停止を求める東大寺側に反論。
文永7年1月29日、北方の北条時茂が死去。この後は南方の北条時輔六波羅探題を代表することになる。頓死したわけでもないだろうから、このころになると時輔が実質上六波羅探題の実権を掌握していたのではないか。11月と12月の二度にわたって伊藤行村に陳状を出させていて、それがもしかしたら時茂から時輔への六波羅探題の実権の所在が代わったことを反映しているのかもしれない。つまり11月に時茂に対して出されていた陳状を時茂が重病に陥ったために急きょ時輔に再提出させた、とも考えられる。普通は訴状と陳状は交互に出され、合計三回やりとりされる。しかし陳状がわずか一ヶ月の間に二回提出されるのは異例とも言えるだろう。
時茂が重病になっている間に菅原長成による「日本国太政官牒」がフビライ宛に出されようとしていた。亀山天皇による和親返牒路線の始まりである。これは得宗北条時宗の横やりで中止に追い込まれるが、この文書を阻止できなかった、あるいはしようとしなかったことが、時宗ひいては得宗の時輔に対する不信を形成させたのかもしれない。
10586号文書「美濃茜部荘年貢絹綿代銭送状」(文永7年2月28日)
銭を合計24貫500文。いろいろややこしいので読み込むのは面倒くさいのでパス。
10699号文書「長井泰茂書状」(文永7年閏9月10日)
前出羽守長井泰茂の書状。大江広元の子孫という名門の大物御家人で、茜部荘地頭の泰茂がついに行村の改易に踏み切る。つまり行村あっけなくクビ。
10700号文書「六波羅御教書案」(文永7年閏9月11日)
これは次回。