北条時輔関係史料 文永4年(1267)5月30日「六波羅請文」 『神宮文庫所蔵山中文書』(『鎌倉遺文』9716号)

今採点中で忙しい。まともな大学教員ならば夏休みがあるので、その間にゆっくり採点できるのだが、私みたいに塾講師の傍ら大学教員をやっていると、塾での本業が夏期特訓に入っていて、朝から仕事。今日は昼からなので、少しだけ暇がある。採点するべきなのだろうが、現実逃避で北条時輔関係史料を纏めてみる。
東大寺関係を通読したので、再び昔にもどって別の文書。
本文

中務丞跡大番役六ヶ月間、太郎左衛門入道敬西分三ヶ月(正二三)於 新院御所(富小路殿)西面棟門并篝屋一所(九条高倉)令勤仕候畢。以此旨、可有御披露候。恐惶謹言。
 文永四年五月卅日  散位平時輔「裏(花押)」
           左近将監平時茂「裏(花押)」
進上 平三郎左衛門尉殿

読み下し

中務丞跡の大番役六ヶ月間、太郎左衛門入道敬西分三ヶ月(正二三) 新院御所(富小路殿)西面棟門并篝屋一所(九条高倉)において勤仕せしめ候おわんぬ。此の旨を以て、御披露あるべく候。恐惶謹言。
 文永四年五月卅日  散位平時輔「裏(花押)」
           左近将監平時茂「裏(花押)」
進上 平三郎左衛門尉殿

中務丞は山中俊信、太郎左衛門入道敬西は山中有俊、新院は亀山上皇、平三郎左衛門尉は(盛時カ)という注釈が付いている。篝屋は六波羅探題が設置した洛中の警備の拠点。京都警備のために大番役御家人に課せられていた。期間は六ヶ月間。多分途中で交替があって、三ヶ月間勤めたことの証明書だろう。
山中俊信は鈴鹿山の警護を担当していた御家人で、1226年(嘉禄2年)に鈴鹿山の賊を退治した、ということのようだ(「http://www.geocities.jp/do_honjo/tanaka/yoshimasa.html」)。有俊はその息子。だから有俊が父のあとをついで三ヶ月大番役をしたのだろう。その証明を六波羅探題がして、それを鎌倉幕府の侍所所司平盛時に提出した、という流れか。
平盛時平頼綱の兄とも父ともいわれる人物で、平盛綱の子。当時は侍所の所司で、御家人の統率にあたっていた人物。侍所の長官たる別当は執権だった、というか侍所別当と財政担当の政所別当を兼務する地位に付された名称が「執権」である。侍所の実務は所司(次官)が担当していた。
追記
請文というのは「命令内容の履行報告もしくは不履行事由報告であって、概していえば復命書と規定することが出来る」「基本的にはやはり対等契約的なものではなく、命令に対する承諾書と規定されるべき」(佐藤進一『古文書入門』218ページ)とある。つまり六波羅探題は侍所所司に対して上申文書を出している、と考えられるのだ。さらに両探題が裏花押を記しているのは、受取者である平盛時に敬意を表すものである。得宗の代理である盛時に対して、北条一門である両探題が敬意を表しているこてゃ、ある意味得宗権力の強化を表すもの、と考えるのか、あるいは盛時は得宗権力の代理であるので、敬意を表するのはある意味当然である、と考えるのか、どの点はいろいろ議論が出来るだろう。