北条時輔関係史料 文永4年(1267)9月19日「六波羅御教書案」 『深堀家文書』(『鎌倉遺文』9767号)

HALTAN氏から「今回に限り、とくにリジョインダーは行いません。勝手ながら御了承の程をよろしく御願い申し上げます。」ということで、HALTAN氏との一件に関しては当方こそいきなり噛みついて申し訳ありませんでした、としかいいようがない。
というわけで、このブログの本来の活動である北条時輔関係史料の講読にもどる。
しばらく間が空いたが、新しい文書群なので、前のエントリは無視してOK。
まずは本文。

肥前国彼杵庄内戸町浦地頭時光申、当庄惣地頭代押領杉浦、致狼藉由事、重訴状(副具書)如此。々事為尋子細、度々遣召文之處、于今不参云々。事実者、太自由也。不日令参洛、可令明申之由、可被相触候。仍執達如件。
 文永四年九月十九日  散位 在御判
            左近将監 在御判
大宰少弐入道殿

あて所が大宰少弐、つまり少弐資能であることが目につく。九州に対する支配は基本的に大宰少弐を通じて行われていたのだ。九州を支配し、外交をも担当するのが大宰府であることは周知のことだが、その長官の帥、員外長官の権帥、次官の大弐は基本的に在京しており、現地の最高責任者は三等官の少弐が担当していた。鎌倉時代大宰少弐世襲していたのが、鎌倉殿御家人の武藤氏であり、武藤氏は世襲する官職を名字化して少弐氏と名乗っていた。
読み下し。

肥前国の彼杵庄内の戸町浦の地頭の深堀時光が申す、当庄の惣地頭代が杉浦を押領し、狼藉を致す由の事、重ねて訴状(副具書)此の如し。此の事の子細を尋ねんがため、度々召文を遣わすの處、今に不参と云々。事実たらば、はなはだ自由也。不日参洛せしめ、明らめ申さしむべきの由、相触れらるべく候。仍て執達件の如し。
 文永四年九月十九日  散位(北条時輔) 在御判
            左近将監(北条時茂) 在御判
大宰少弐入道殿(少弐資能

深堀氏は三浦一族。和田義盛の一族のようで、時光に時代の建長七年(1255年)に彼杵の戸町浦の新補地頭の地頭職代官となり、本補地頭の戸町氏との争論が絶えなかった。これは新補地頭の深堀時光が本補地頭の戸町氏を訴えたものであろう。そこで六波羅探題は本補地頭の戸町氏に対して少弐氏を通じて呼び出しをかけている。この顛末は次。