追加法268

建長二年三月五日の評定で出された法令。全3条。一条目は寄沙汰の禁止、二条目は山門僧徒つまり延暦寺の僧兵の寄沙汰禁止、三条目が今回みる悪党問題。
本文

一 大和国悪党等事
此事先日仰六波羅、雖申入一乗院大乗院、不事行云々。於自今以後者、差遣武士、召取其身歟。至彼等跡者、可令注進。不被改補地頭者、向後狼藉不可断絶歟。以此趣可觸申者、同可被仰六波羅

読み下し。

一 大和国の悪党等の事
この事先日六波羅に仰せて、一乗院・大乗院に申し入るといえども、事行われずと云々。自今以後に於いては、武士を差し遣わし、その身を召しとらんか。彼らの跡に至りては、注進せしむべし。地頭を改補せられずんば、向後は狼藉断絶すべからず。この趣を以て触れ申すべきてへれば、同じく六波羅に仰せらるべし。

大和国の悪党について一乗院・大乗院に申し入れたが、一乗院や大乗院は動かない、ということで、基本的に「西国の事は聖断たるべし」という原則があったため、本所(この場合興福寺)が動かなければ幕府はどうしようもない。大和国は守護も設置されておらず、事実上興福寺が守護の地位にあった。地頭も承久の乱以後、少し置かれるようになったが、ほとんどが地頭不設置であった。地頭を設置できるように、というのが鎌倉幕府の意向である。
「悪党」に関しては、その本質が後の国人領主につながる存在なのか、あるいは鎌倉後期の諸矛盾が現れたものなのか、という論争が続いていたが、「悪党」という文言事態は訴訟用語であったようだ。つまり自分の相手を「悪党」と名指しする、という文脈で出てくる。鎌倉末期には「悪党」というのは「国家の怨敵」という形で資料上に出てくる。そして鎌倉末期には地頭不設置の荘園に対しても六波羅探題の要請に応じて衾宣旨・衾院宣違勅綸旨・違勅院宣が出され、それを受けて衾御教書が六波羅探題より出され、六波羅使節が直接荘園に乗り込んで悪党逮捕を行える体制が整う。これが実現する背景としてモンゴル戦争がある。
北条時頼の時代にはもちろんそのような体制は未整備であるために、荘園領主の同意がなければ悪党対策は困難を極めたのである。
追記
誤記があったので訂正。衾御教書と違勅綸旨・違勅院宣が混ざったうえに違勅宣旨と書いていた。訂正します。