終わりの始まり

戦後左翼運動史のエントリ。別に他意はない(笑)。
多くの若者が参加した60年代末の学園紛争。それが急速に退潮した背景には何があったのか。
全共闘運動がある意味カジュアルな参加を勝ち得た最たる例が日大全共闘だろう。全共闘運動が左翼のみならず、ノンセクト無党派の70年代的言い方)学生を惹きつけ、「ノンセクトラジカルズ」と呼ばれた人々を作り出したのは、全共闘運動が主として政治的にゴリゴリな左翼的主張を掲げたからではない。例えば中央大学では学費闘争から始まっている。東大全共闘は登録医制度の反対から火がついた。その中でももっとも「全共闘」的だったのは日本大学の例だ。
1968年2月、国税庁日本大学使途不明金20億円を摘発、そこから日大の乱脈経営に抗議する学生の運動が盛んになった。5月21日の抗議集会を皮切りに23日には2000名の学生によるデモ、それに対して大学が15名を処分してデモは拡大、27日には1万名のデモに膨れ上がり(いずれも人数は多分主催者発表)、全学共闘会議全共闘)が結成された。全共闘に反対する体育会系の学生(彼らは概ね大学で特権的な地位を与えられている。私の大学でも本来大学院生にしか回ってこない入試監督のバイトは体育会の学生には優先的に回される)や、右翼系学生団体との衝突が繰り返されていく。初めて右翼団体との衝突が起こった頃、機動隊が登場した時に、全共闘学生は拍手で迎えたと言う。全共闘の学生は機動隊が日本刀や斧で武装した右翼学生を排除する、と思い込んでいた(菅孝行全学連』126ページ)。しかし機動隊は武装した右翼学生を掩護し、全共闘の学生に襲いかかった。
こういう空気の運動が急速に退潮したのは、機動隊の介入が効果を上げたからでは実はない。全共闘の終焉と言われるのは「全国全共闘連合」の結成である。
1969年9月5日、全国全共闘結成大会が開催され、議長に東大全共闘山本義隆、副議長に日大全共闘秋田明大が選出された。しかし全国全共闘連合自体が新左翼8党派のバランスの上に成立したものであり、ノンセクトは距離を置くようになる。と同時に全国全共闘運動の「弱腰」を批判し、武装闘争路線を貫く共産同赤軍派が登場してくる。
左翼セクトからすれば、日大の乱脈経営批判や中大の学費闘争、東大の登録医制度反対闘争はいわば「道草」であり、彼らの主戦場は国際反戦デーから沖縄デー、そして70年安保であった。
多くのノンセクトラジカルズ(無党派で左翼思想に親和性を持つ学生)から遊離し始めた左翼運動は党派性をあらわにし始め、全国全共闘連合は71年の山本議長の辞任で解体する。こうして学生運動は運動としての全体性を見失う。全体性を見失った学生運動は先鋭化することに存在意義を見いだそうとしていた。しかし先鋭化すると、そこにセクト主義化が強化され、敵への激しい闘いの意思は、しばしば戦列内部での対立をも先鋭化させる。中核・革マルの殺傷合戦(内ゲバ)や連合赤軍の同士殺し、そして運動の過激化は一般人を巻き込むことになる。
過激化した運動はもはや広い支持を集めることができなくなる。過激化する一つの契機は、本来素朴な社会への疑問を持った人々を政治的党派が自らの政治的主張を実現せんがために、運動を引き回す。その結果、無党派は行き所を失い、運動から離脱する。上の例で言えば、無党派はあくまでも自分の所属する大学への不満が一番の関心事であった。安保・沖縄・三里塚(成田)は二の次である。一方セクトにとってはあくまでも主戦場は安保・沖縄・三里塚である。そこに向かって突進する時、両者の間に齟齬が生じる。セクトからすれば「道草」と感じ、ノンセクトからすれば「セクトによる引き回しだ」となる。ノンセクトセクト主導の運動から離脱し、セクトは党派性を表に打ち出し、ますますノンセクトから遊離する。やがて運動は先鋭化し、ますます社会から遊離し、やがてカルト化し、自壊する。運動のセクト主義化は終わりの始まりである。引き回されていたことに気付いた大衆は離脱し、運動は終焉を迎える。そこにしがみつく人々はカルト化し、セクト主義を強め、内部対立を強める。「○○の手先」と内部対立の相手を罵るようになると、末期的な症状と言っていい。完全に自分らの進むべき道を見失っているからである。さらに運動の矛先を権力ではなく、一般の人々に向け、彼らを威圧するようになると、世間の共感を買うどころか反発を買うようになる。しかし自らを見失っているセクトにはその反発は耳に届かない。カルト化が進行し、社会からの遊離を強め、その運動は瓦解する。これは歴史の教訓である。