「鎌倉幕府」を「幕府」たらしめる「差分」について

『日本史研究』563号(2009年7月号、つまり最新号)に掲載された高橋昌明氏の「六波羅幕府という提起は不当か−上横手雅敬氏の拙著評に応える−」という論考は、ある意味「鎌倉幕府鎌倉幕府たらしめている差分は何か」に関わる論争である。
高橋昌明氏はその著『平清盛 福原の夢』(講談社撰書メチエ 2007年)において平清盛の政権を「六波羅幕府」と呼べるのではないかと提起した。それに対する上横手政敬氏の書評(『日本史研究』556号、2008年12月号)において高橋氏の「六波羅幕府」という提起を批判した。上横手氏は鎌倉幕府の基準からすれば平家政権は「幕府」と呼ぶには値しない、ということである。
上横手氏は

六波羅が幕府であることを証明する場合、六波羅の中に鎌倉幕府と共通するものと探すのは当然である。それに対して著者(高橋氏)は、逆に鎌倉幕府の中に六波羅と通じるものを求める。形式論理からいえば、明らかにその方法は倒錯している。

と批判する。
それに対する高橋氏は

既成の鎌倉幕府の概念を、幕府たるものの基準とする手法は、はじめから平家政権の性格への誤認、意義の過小評価に導く危うさがある。

と反論する。鎌倉幕府が最初の幕府という、研究者の脳裏に刷り込まれた「常識」に対しての異議申し立てである。
その上で高橋氏は鎌倉幕府の本質を「国家の軍事部門の担当者として、諸国の御家人を率いて内裏を警固する(大番役)ところにある」とし、平家も国家の軍事警察担当部門を担当していた、とする。上横手氏は鎌倉幕府と平家の差を、平家が朝廷の構成員であるのに対し、鎌倉幕府は中央権力が解体した東国を基盤とし、朝廷から独立した政庁を持っている点で、鎌倉幕府の差分とするわけであるが、幕府の本質を国家の軍事部門の担当者とし、平家も軍事部門の担当者である、という見解は上横手氏自身が唱えてきた見解である、と切り返す。
上横手氏が幕府の「差分」を「中央から独立した広範な地域を支配すること」に求め、鎌倉幕府は「中央国家権力による支配が解体し、中央からの独立性を強め」ていた坂東に成立したのに対し、平家政権はわずかに摂津・播磨の一部の支配だけではあまりにも狭小であると批判したのに対し、高橋氏は「西国に対する影響力は直接支配領域の大小だけから単純に判断すべきではない」とし、「坂東規模の広大な支配がなければ幕府ではないという立場に、私は立たない」とする。
高橋氏が「六波羅幕府」の成立について平重盛平宗盛近衛大将任官を持ち出したことを批判したことに対して、中国における「幕府」の用例について「もう少し意味のあることを述べているつもり」とする。つまり高橋氏は「幕府」は後漢の時代に将軍の官庁の意味に用いられるようになり、三国時代には都督府を設置し軍事権を統括させ、都督は刺史を兼ねる軍政長官であり、中唐以降は節度使の政庁が使府、あるいは幕府と呼ばれる。つまり「政庁は長官が開き、幕僚も自らリクルートするという傾向が強い。幕府は王朝の一部であると同時にそれと同質の構造をもつので、前者が後者に転化する可能性がつねにはらまれていた」とする。
高麗王朝における武人政権も崔氏政権で設置された教定都監は「旧来の国家に吸着し、それを通して人事・行財政などを掌握する政治機関」であり、「韓国歴史学界の多数意見によれば『幕府的』なものである」とする。
中国と高麗における軍事政権について述べた後に高橋氏は次のように提起する。

これまでの日本史学では、如上の一般官庁としての幕府の存在には注意が払われてこなかった。これら東アジアの各時代に登場する多様な幕府の存在に注目すれば、日本の幕府概念ももっと柔軟であってよいし、それらの研究と対話ができる形で論じ直さなければならないだろう、特殊日本史の時代区分と深く関連して構築された鎌倉幕府の概念を前提にするのは、伝統的とはいえ一国史の視野にとらわれた考えであり、今後克服されねばならない点である。

その上で上横手氏に対しては

独立性の強い地域政権である点のみを強調し、それを幕府であるか無いかの実質的な判定基準にするなら、汎東アジア的な意味で、平家政権を幕府と位置づけうる途があるのに、そこから眼をそむける結果になる

と批判する。
鎌倉幕府に関しては「半独立の東国地域政権的な面」を本来的あるいは自明の要素としてではなく、内乱の過程によって作り出された特殊性として考え直す必要がある、とする。

それは日本がなぜ不徹底とはいえ、東アジアで一般的だった文人優位の官僚国家を経過しながら、武人主導の封建的構成を特色とする社会に分岐していったのか、という難問を解決する上で、大事な論点となるだろう。国家の軍事警察担当権力というだけなら、地域政権やそうした分岐を必然とはしないからである。

とする。つまり「半独立の東国地域政権的な面」は「鎌倉幕府」を「鎌倉幕府」たらしめている「差分」ではあっても、「鎌倉幕府」を「幕府」たらしめている「差分」ではない、ということであろう。
上横手氏と高橋氏の論争を拝読していて思ったのは、両者の「差分」を問う問いにずれがあるのではないだろうか、ということである。つまり、鎌倉幕府も平家政権も「国家の軍事警察担当権力」であるのだが、鎌倉幕府と平家政権の「差分」がどこにあるのか、ということである。上横手氏が考える「鎌倉幕府を幕府たらしめる差分」は「半独立の東国地域政権的な面」「東国の独立駅ナ地域的軍事政権という面」なのだが、高橋氏にとってはそれは「鎌倉幕府鎌倉幕府たらしめている差分」なのである。つまり上横手氏にとっては「鎌倉幕府を幕府たらしめる差分」は「独立的な地域的軍事政権という面」であり、その観点に立つならば、平家政権は「幕府」たりえない。高橋氏にとっては上横手氏が「幕府たらしめる差分」として挙げたものは、「鎌倉幕府たらしめる差分」であって、「独立的な地域的軍事政権という面」を欠いていても「幕府」たりえるのであり、それは「幕府たらしめる差分」ではない。高橋氏にとっては「幕府たらしめる差分」は「国家の軍事警察担当権力」なのである。
高橋氏は最後のところで

かつて氏は、東国の独立的な地域的軍事政権という以外は、平家の政権と鎌倉幕府の間には「さほどの違いがあったとは思え」ないとすら述べている。私見と近いのも当然なのである。

そして今回議論になったのは「独立的な地域的軍事政権」という側面が「幕府を幕府たらしめる差分」となったのか、という点である。
私自身、むかし高麗の武人政権と鎌倉幕府の「差分」について考えたことがあったし、室町幕府のもとでの関東公方権力も一種の「鎌倉幕府」と言い得るだろうと思っているし、さらには懐良親王の「征西将軍府」もいわば「九州幕府」と呼称して差し支えないだろうと考えている。私自身は「六波羅幕府」という提起に魅力を感じている。