「こいつにdisられたら勝ち」の解説(←違)

昨日のエントリの解説。もともとは千葉県英会話講師殺害遺体遺棄事件の犯人逮捕のニュースをみて、「こいつの弁護きついよな」と思ったのが原型。この案件に関しては「殺人罪」の適用に反対する弁護方針を取らざるを得ないと考えていたから。弁護士としては被疑者が殺意を否認すれば、傷害致死を主張しなければならないだろう。あとは光市母子殺害事件のようなことが起こるかもしれない。それこそ「裁判前から有罪確定。冤罪や暴力が無くならないわけだ。やっていることはレイプ犯と同じ勝手な思いこみによる暴力だな」という弁護士に対して懲戒請求を煽った橋下徹氏及び懲戒請求をして弁護活動を疎外した人々に対する批判としては非常に的確な批判がある。しかしにも関わらず、感情的な厳罰化を主張する声は大きく、下手をすれば懲戒請求が来るかもしれない、という危機感を抱いても不思議ではないだろう。私も「裁判前から有罪確定。冤罪や暴力が無くならないわけだ」という意見と同じく、推定無罪の原則に立ち、被告人の権利を最大限尊重すべきである、ということは頭では分かっていても、心情ではなかなかそうはいかない。自分がそこまで先入観から自由ではない、ということを自覚すればこそ、そこの矛盾をどうするべきか、ということを、考えたつもりで、この葛藤は外野の気楽な感想ではないのは、裁判員という制度があるからである。私は現時点では気楽な外野であるが、裁判員に選ばれれば、外野ではいられない。このところ残虐な事件が続いているので、余計にそれを考えてしまう。千葉大生殺害放火事件や島根県大学生殺害遺体損壊遺棄事件など、非道な犯罪が続いている。それに対する「許せない」という気持ちがあり、その一方で厳罰化が正しいのか、死刑は正しいのか、という、左派としての信条に基づく考えがあり、二つの心情と信条の間で立ちすくむしかない状態に関して言えば、「左巻きの連中もその実人間だったという話」というのは、ある意味的を射ているかもしれない。
ただ否認している前者の被疑者を「吊るせ」と書けばそれこそ「やっていることはレイプ犯と同じ勝手な思いこみによる暴力」という批判が成り立つので、この事件は慎重に論点としないでおいた。後者に関してはまだ犯人の特定に至っていない状況で、逮捕された人が冤罪でない、という条件で論じているので「やっていることはレイプ犯と同じ勝手な思いこみによる暴力」という批判に該当しないようには意識している。
少しメタな視点を入れたのは曾野綾子氏による島根県立大生殺害板井損壊遺棄事件という猟奇事件の被害者への「結果に責任」という言説を批判する、という意図があった。ただそれだけであり、今はてな村で少し盛り上がっている「男は獣だ」「獣だったら檻に入れろ」論争は一切念頭に置いていない。こちらはほとんど議論を追っかけていないからだ。まあそういう党派性にがんじがらめになった誤読をする人はまさかいるはずがない、と信じている。