ウィキペディアの歴史叙述がひどい(笑)

まあ確認事項だが(笑)(もちろん有用なところは多く、使うには注意が必要である。分かって使う分には非常に便利。しかしあれが通説とか思うとまずい。必ず活字媒体で裏どりをすることをお勧めする。大事な情報がぬけていたり、トンデモな話が記載されていたりする。今は大量の著作権侵害があるようで、ややこしいことになっているようだ。)
亀山天皇の項目。「第6代将軍の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康親王の下向を要請した」
いや、だから惟康は鎌倉生まれだって。宗尊親王近衛基平の姉、つまり近衛兼経の娘の宰子との間に生まれたんでしょうが。さらに言えば宰子は北条時頼の猶子となって宗尊親王のもとに嫁いでいる。惟康が鎌倉に下向する余地は全くない。生まれも育ちも完ぺきに鎌倉だ。
惟康親王の項目。「正応2年(1289年)9月、北条氏が将軍の長期在任を嫌い後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望んだことから、将軍を解任され京に戻された。その際、追放の下準備として幕府の要請により皇籍復帰し、朝廷より親王宣下がなされ、「惟康親王」と名乗った」だと。おいおいおーい。親王宣下されたのは弘安12年(1287)だ。ずいぶん長い話を「その際」とまとめているんだな(笑)
惟康が源姓を名乗ったのは安達泰盛が一枚かんでいる、というのが有力な意見だ。泰盛は弘安徳政を行う中で、惟康に源を名乗らせ、源氏将軍を復活させようともくろんだ、という。ただ源氏将軍と言っても源頼朝源惟康ではずいぶん差はある。しかし皇族将軍ではない形を模索したのだろう。しかし弘安徳政が霜月騒動で頓挫すると、泰盛と対立していた平頼綱が皇族将軍を復活させたのである。
いちいちウィキペディアを編集するのも面倒くさいのではてなキーワードに気が向いたら載せておこう(ちなみに今見てみたら惟康親王はすでにあり。良質な記述だったので、源姓の話と親王宣下の記事だけ加えておいた)。
ちなみにウィキペディア宗尊親王の項目はかつては「佐渡に流された」という荒唐無稽な妄想が書いてあったが、おそらくは大河ドラマの見すぎで大河ドラマを真に受ける人が勘違いしたのだろう。今はきちんと治って直っている。