ウィキペディアの歴史叙述がひどい2(笑)

赤松則村のページ。「鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、それまでの播磨国守護職を没収されるなど優遇されなかった事が知られている」
赤松氏のページ。「赤松円心後醍醐天皇に味方したにもかかわらず、建武の新政で守護国を没収された」
これだと建武の新政播磨国守護職を没収された、つまり建武の新政以前の鎌倉時代には播磨国守護だったように読めるが、実は違う。そもそも播磨国という「大国」の守護職を赤松氏という得宗との関係も定かではない武士に任せるわけがないではないか(まあ得宗被官かもしれないが、得宗被官であれば守護にはなれないだろう)。
ウィキペディアの「播磨国」のページにに播磨国守護職がまとめられている。それによると「梶原景時→小山朝政→後藤基清→小山朝政→小山長村→小山宗長→北条時宗→北条兼時→六波羅探題北方兼任」となっている。小山長村は北条時輔の義父にあたる。1276年には北条時宗つまり得宗が守護となるが、これは元への対策として得宗とその周辺の人々が西国の守護になったことの一環である。北条兼時は北条宗頼の子で、嘉元の乱の首謀者で誅殺された北条宗方の兄にあたる。播磨国守護にあとは摂津国守護と六波羅探題南方になり、兼時が抜けてからはしばらくは不詳で、1303年以降は六波羅探題北方が兼任していたことが確認されている。おそらくはそれ以前から六波羅探題北方の兼任だったのだろう。
赤松則村播磨国守護職になったことが確認されるのは1336年であって、可能性としては鎌倉幕府滅亡後に播磨国守護職になったかもしれない。しかし可能性でしかないが、護良親王との関係(息子の則祐は尊雲法親王時代の護良親王の側近だった)を後醍醐天皇に疎まれ、護良失脚後に播磨国守護職を没収された可能性はないではない。しかし「建武の新政守護職を没収された」と書くのは誤解を招くだろう。というよりも、はっきり言って誤りである。