大学の細切れ雇用

タカマサさん経由(タカマサのきまぐれ時評2 講師の「細切れ雇用」で、大学は教育できるのか?(日経BP))。

「もう専任講師の道は諦めた」
そう話すのは、第二外国語の非常勤講師、立石誠司さん(仮名、44歳)だ。誠司さんは早稲田大学を卒業後、大学院に進み外国文学を学んだ。修士課程で2年、博士課程は6年在籍して、所定の単位を取り学位(博士号)を取得せずに博士課程を修了する「満期退学」した時は31歳だった。

少しプロフィールをいじればそのまま私。「第二外国語」ではなく「日本史」、「早稲田大学」ではなく別の私立大学、「外国文学」ではなく「日本史学」、「博士課程は6年在籍」ではなく「3年在籍」。「単位取得退学」した時は29歳。ちなみに「所定の単位を取り学位(博士号)を取得せずに博士課程を修了する」のは、私の大学では私の年代まで、私の少し下からは必ず博士学位をとるようになっている。周辺の大学では博士学位を取るのが普通になっていて、私の年代では少数派だと思う。大学側が学位取得の要件を整えていなかったわけで、大学の怠慢だと思う。一応準備はしてはいた。ただどんな論文を書けばいいのか、という要件は明らかにされていて、一応「主題に関する公刊論文3本」という条件はクリアしていた。あとは原稿用紙300枚分の論文を書いて提出するのだが、「いつまでに」「どこに」「どのように」提出すればいいのか、については全く分からず、指導教授に聞いても分からず。そもそも課程博士を出すような雰囲気ではなかった。当時私が在籍していた大学では博士は碩学泰斗が取るものというイメージが強く、大学院出たばかりの若造に博士学位を与えるつもりはなかったのである。そもそも私の指導教授もまだ博士学位を取得していなかった。

大学院生が大学に就職する時、通常は指導教官が独自の人脈などを使って就職先を世話する慣例があるのだが、誠司さんの担当官は全く就職の斡旋をするタイプではなかった。自力で就職しようにも、第二外国語はもともと受講生の人数が限られるためポストが少なく、専任講師として正職員採用されにくい。

就職する時の人脈だが、これは大学、あるいは分野によりけり。私の周辺では人脈で就職した例の方が少数派。公募を探して、自分でもぐり込む。私の指導教授は就職の斡旋をしそうなタイプだったし、そのように噂されていたが、そもそもポストがなければどうしようもない。まあ大学のCOEの研究員も全く回ってこなかったので、はぶられていた可能性が高いが(笑)

誠司さんは、人づてに1コマ90分の授業を複数の大学から拾うようにして、食いつなぐことにした。
「4〜5年前が一番、コマ数が多く、週に14コマの授業を受け持つことができた。1コマ平均2万5000円で、年収は最高で400万円。今年は週11コマに減っているが、それでも周囲の非常勤講師と比べたら恵まれていて、申し訳ない気分になる」(誠司さん)

すごいな。14コマも受け持つ同業者なぞ見たこともない。どこにそんなポストが余っているのか、と言いたくなる。私は最大の時で二つの大学で合計7コマ。これでも一番多かったらしい。昨年度は3〜4コマ。大学からの年収は100万ほど。残りは塾講師で稼いでいる。本郷和人氏は『武士から王へ』(ちくま新書、2007年)のあとがきで「日本の前近代史がうまくない」という。若い人に人気がない理由について本郷氏は「暗記させられる量が多すぎる」こと、さらには研究者=大学教員が「暗記の先にある豊かな稔りをを明示し得なかった」ことに求めている。「歴史研究者は研究者とは名ばかりの、創造性と優葵とを失った何者かに成り果て、子どもたちの歴史嫌いは加速する一方である。日本史という学問の収縮は止まらない」と危機感を表明する。

収入が安定する専任講師の道を探りたくても、コストカットで第二外国語の授業数が減らされる傾向は強く、論文を書く意欲も減退してしまった。
ただ、研究者と教員という両面を持つ仕事の中で、教員として授業の工夫次第で学生のやる気を引き起こし、社会問題を考える動機にもなることには、社会的意義を感じている。社会問題のドキュメンタリー映画などを外国語で見て、討論する。
誠司さんは「若い世代は、きっかけさえあれば、視野がどんどん広がっていく。それを提供できるという、これ以上、楽しい仕事はない。この年になって楽しいと思える仕事に就けることは幸せだ」と話す一方で、そう遠くない将来、非常勤の仕事すらなくなるのではないかと覚悟しているという。

分かる。専任講師の道は私は諦めていて、諦めると論文を書く意欲も減退する。それなりに金と時間を使うわけで、ちょこちょこと仕事の空き時間を見つけてブログを更新したり、野球のネタやNゲージを扱う時間を研究に充てれば論文が書ける、というようなものでもない。それなりにまとまった時間と金が必要になる。ちょっと史料や先行研究を分析しようと思えば、図書館や資料館などに入り浸るか、金をかけて購入するしかない。それが将来につながるのであればとにかく、将来が全く見通せない現状ではそんな金と時間をかける訳にはいかない。ちなみに原稿料というものは期待できない。私が今まで稼ぎ出した原稿料は5500円(!)である。発生したのは二本。一本は論文で5000円。入ってくるとは思わなかった。大学の研究所の紀要なので資金があったのかもしれない。もう一つは辞典の項目。500字なので500円。小さな項目だったので、大した金にはなっていない。あとは持ち出し。場合によっては抜き刷りも自分で購入しなければならないケースすらある。そもそも学会誌は会員費を払っていないと執筆できないわけで、書くことにすら金がかかる。
「若い世代は、きっかけさえあれば、視野がどんどん広がっていく。それを提供できるという、これ以上、楽しい仕事はない。この年になって楽しいと思える仕事に就けることは幸せだ」というのも分かる。

大学などの非常勤講師の仕事は契約書をきちんと取り交わさず、契約の中身が曖昧なことが少なくない。わずかな細切れ雇用でも、職を求める側にとっては、労働条件の明示を要求しにくい心理が働き、泣き寝入りすることが多いという実態がある。

まさに。今私は10月から入るはずの仕事の連絡がまだない。今ごろ「あなたクビです」と言われても困るのだ。というよりも「連絡がない」=「仕事がない」ということかもしれない。それも言われていないので何ともしようがない。この仕事先は連絡が遅い。何も連絡がないから他の仕事を入れたら、突然仕事が入る、という前歴が合ったので、こちらも一日空けなければならないのだ。そういう状態で、連絡をせずにクビというのも不誠実だが、法的には問題がないようなので、このまま仕事が入らずに45万円の減収になっても泣き寝入り。しかも今やっている大学の関連大学なので、向こうでもめると、こちらにも影響がありそうで、泣き寝入り確定(泣)指導教授は保守的なエスタブリッシュメントなので、組合を通しての団体交渉なんぞやろうものなら破門される。左翼的な政治思想を撒き散らす分には、歴史学の研究の手続を守った研究をしている限りは不問だったが。

そもそも、文科省が前述した答申を出した1991年頃、企業からの大学院生の需要が増えると見込んでいたが、それは希望的観測だった。需給見通しが甘かったため、何のキャリアパスも用意されぬまま、大学院生が増え続けた結果が、高学歴ワーキングプアの増加となった。

私のいる日本史学という分野にそもそも需要などほとんどない。だから私のような研究分野の人間が高学歴ワーキングプアになっても自己責任、という意見もある。一方で分からないでもない。需要のないマイナーな分野を選んだのは私だ。ただ日本史学でも1991年ごろから大学院生倍増計画の影響で大学院生が増加している。私が修士課程に入ったのが1990年で、その時は修士課程が3人、博士課程が1〜2人。今は確かに多い。修士課程で10人はいるのではないか。博士課程は一時5人位取っていたが、さすがに最近は3人位、場合によっては1人に減らしている。上がつかえているから。日本史学のように需要のない分野もひとしなみに倍増計画を適用したことに甘さはなかったのか、とか、言いたいこともある。でも今の境遇は自己責任だよなあ。

研究者の卵たちにとっても不遇であるが、教える立場の人間が細切れ雇用であれば、そうした非常勤講師に教えられる学生は細切れ教育を受けることにもなる。

学生の声でもよくある。「先生の研究室はどこですか。いろいろ質問や相談に乗って欲しいので」私に研究室などない。「いつ質問に行ったらいいですか」この時間以外は別の仕事で忙しい。今してくれ。しかも私のように立場の弱いと、フォローの必要な、面倒くさい仕事を回されたりする。専任教員はCOEの研究で忙しいし、お気に入りの研究者もCOEの研究員という、研究に専念できる仕事に回って、フォローの必要で効率の悪い仕事をCOEの期間ずっと押し付けられていたなあ。卒論の指導だが、学生が古代から近代までいるので、教員も4人いる。だから給料は4分の1、ひと月に2万5000円の4分の1、つまり月給6250円(!)。しかし4回に1回いけばいいわけではない。2回に1回は行っていた。それ以外に学生からの相談のために時間を作って行ったり。責任を全うしようと思えば「私は6250円分の仕事しかしません」という訳には行かない。そういうのは本来は高給の専任教員がするべきだと思うのだが、専任教員は「忙しい」らしい。そもそもそういうところを拒否すれば仕事自体なくなる、というのが現実。

国立大学の元理事は、こう話す。
「大規模大学以外の大学の経営は厳しい。特に、国立大学は毎年1%の運営費交付金を削られ、人件費に手をつけるしかなくなった。定年退職した教員の後任は補充せず、専任講師の講座は徐々に非常勤に置き換えた。非常勤の単価も3割カットした。事務職は派遣社員で賄っている状態で、正職員採用にしないよう3年経ったら入れ替える」
まさに、独立行政法人化の失政とも言えないか。

大規模私立大学でも人件費に手を付けている。専任教員も給料を10%カット、分野によっては定年退職教員も補充しない、ということもある。私が恵まれているのは単価のカットがないということ。そして分野全体の不振とは裏腹に、日本史の学科は羽振りが良く、専任教員も増えた。その増えた専任教員の担当コマ数確保のために私のコマがばっさりと切られて半減した。私の指導教授でもあるので逆らえない。まさに調整弁である。だからそもそも大学非常勤講師の金で生活しようと考えるのが間違っているのだ。私は生活の糧を塾講師にしていたから、困窮しなかった。私が非常勤講師の給料で生活していたら、今ごろ行き詰まって自殺していたかもしれない。まじで。専業非常勤講師の経験のない大学教授はそういう想像は働かない、自分の身は自分で守らないといけない、と悟った。少なくとも大学当局は非常勤講師の生活のことなど、全く歯牙にもかけていないことは感じる。今になっても今年の仕事についての連絡がない大学なぞ、こちらの生活のことを少しでも想像すれば、連絡を速くしようとするはずである。今ごろ「クビです」と言われても、困る、としか言えない。
大学非常勤講師で生き抜くためには、非常勤以外にしっかりとした収入先を見つけておかないといけない。尤もそういう収入先でしっかりやろうと思えば、研究という「余技」などまじめにできるわけがないのは、受忍しなければならない。塾の講師にしても、生活費をもらっているわけだし、金を払ってくれている親のためにも生徒の指導はしっかりしなければならない。研究の余技で塾講師の仕事は本格的にはできない。
事務職員の細切れも現場からすれば困る話だ。今まで通じていた話が通じなくなる。というか、もう1回はじめからやり直し、ということがある。事務職員同士で引き継ぎが行われていればいいのだが、細切れになると引き継ぎが行われない。昨年までのやり方をそのまましていると、ややこしいことになっていたりする。それも変更するのであれば、連絡してくれればいいのだが、引き継ぎがなされていない状態では、変更されているのかどうかすら、事務職員は知らないのだろう。学生も困っていないのだろうか。
最後にこうまとめている。

資源に乏しい日本が世界で生き残るには、優れた頭脳を結集して知的な勝負をかけてリードしていくしかないはずなのに、その土台が崩れようとしている。コスト削減という意味ではなく、真の国際競争で勝つには、他の国から模倣されても追随を許さないよう、技術やアイデアがナンバーワンであり続けなければならない。だからこそ、質の高い教育が大事であり、教員が大事であるのに、まるで逆行している。

まあ、日本史学はここでの問題提起から外れているわな、という気もする(笑)。鎌倉幕府室町幕府や朝廷がどのような対外意識を持ち、どのような対外政策を行なおうとしていたのか、知っても知らなくても関係がないような気もするから(笑)ただ少数民族先住民族の歴史や現状を知ることは、国際社会で活躍するのに必要だと思うし、国際社会で活躍しようと思えば、日本の歴史や文化を知ることは、必要ではないのかな、とも思うが。北条時宗井伊直弼や防人位知っておいた方がいいと思うぞ。元寇すら知らない日本人大学生はかなりの数で実在するから。