永福寺の建立事情

永福寺の建立事情について、修理の時に北条時頼が述べている。

当寺者、右大将軍、文治五年討取伊予守義顕、又入奥州征伐藤原泰衡、令皈鎌倉給之後、陸奥出羽両国可令知行之由、被蒙勅裁。是依為泰衡管領跡也。而今廻関長東久遠慮給之余、欲宥怨霊。云義顕云泰衡、非指朝敵、只私宿意誅亡之故也。仍其年内被始営作。(『吾妻鏡』宝治二年二月五日条)

「怨霊を宥めんと欲す」というのは『吾妻鏡』文治五年十二月九日条では「且宥数万之怨霊」とある。「数万の怨霊」とは言うまでもなく源頼朝のために死に追いやられた人々のことであるが、文治五年十二月というのが、奥州征伐の後のことである。奥州征伐は頼朝にとっては自身の政権の確立のための総仕上げであった。そのために頼義故実前九年の役での源頼義の行動)を再現し、自身が関東の「王」であることを内外に宣言する行事だったのである。その戦いは即ち治承の自身の挙兵以来の戦いの総仕上げであった。その後に「数万の怨霊を宥め」るという行為は、とりもなおさず自身の治承の挙兵以来の戦いで死に追いやられた人々の鎮魂を目的としている。しかもその対象に「義顕」(源義経)と藤原泰衡が入っていることは、永福寺が敵味方関係なく鎮魂をするために建立された寺院であることを示している。「数万の怨霊」とは、頼朝の挙兵以来の行為によって犠牲になった全ての犠牲者のことであり、死ねば敵味方関係なく慰霊をすることこそ、「伝統」だったのである。「義顕と云ひ、泰衡と云ひ、さしたる朝敵に非ず」とあるのは、一応「朝敵」であり、頼朝にとっては「宿意」のある人物であったにも関わらず、むしろそれだからこそ、慰霊され、鎮魂されなければならなかった。敵を鎮魂の対象から除外するという、死者になおむち打つような行為は、おそらく戊辰戦争以降のことであろう。
言うまでもなく敵味方の死者の霊を弔う行為は勝者にこそできる行為である。永福寺は敵味方問わず戦争による死没者を慰霊する寺院であるとともに、その戦乱の勝者であることを示す寺院でもあった。逆に言えば戦争の勝者はその戦争で犠牲になった全ての人々を鎮魂する責務があった、ということだと考えられよう。
秋山哲雄氏の言葉を引用しておく。

戦争が終われば敵味方の区別なく弔うという姿勢こそが、伝統的な戦争犠牲者に対する供養の方法だったことは、何としても読者に記憶しておいてほしい。(秋山哲雄『都市鎌倉の中世史』吉川弘文館、114ページ)