これはひどいウィキペディア「元寇」編

ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。
関係部分を引用。

1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。

多分『吉続記』*1『師守記』*2を読んだことはないと思われる。朝廷は返牒まで作成している。それを握りつぶしたのは幕府である。あとクビライが武力侵攻を決定するまでに派遣した使者は一回だけ。1272年に趙良弼が再来日して一年にわたって博多・太宰府に滞在している。
あと気になるのは、こと「元寇」に関する限り、デタラメを垂れ流す人物が朝廷を強硬論中心で書いていること。特に近衛基平の項目や『深心院関白記』の項目でデタラメを恥ずかしげもなく披瀝している御仁はその傾向が強い。「基平は下手に返答を出せば御しやすしと侮られ、日本の体面を潰しかねないと憂慮し、返答せずの姿勢を堅固し」なんてどうして分かるのだ?近衛基平の霊言か(笑)
追記
上記「元寇」の記事でひどいのはここ。実は「元寇」の記事は非常に良質なのだが、この書き込みが「元寇」の記事の質を一気に落としている。

朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった

いろいろ調べてみたら2005年6月23日に「歴史好き」を自称する人により加えられているようだ。中国法制史に加筆してみたいそうで、中国法制史関係の方は警戒が必要。かなりのバイアスがかかっていると思われる。

*1:文永八年十月二十四日条に「可有返牒云々。先度長成卿草少々引直可遣云々」とある。菅原長成の作成した返牒を少し変更して遣わすことに決定している。それを握りつぶしたのは幕府である。

*2:貞治六年五月九日条に「件度連年牒状到来之間、有沙汰、被清書下、返牒無相違者、可遣大宰府之由、雖被仰合関東、不可遣返牒之旨、計申」とある。朝廷は返牒を遣わす方向で一致し、関東に「仰せ合わせた」ところ、幕府が反対し、返牒はなされなかった、という内容。