『満済准后日記』解釈に関する北方史研究者の解釈を駁す1

というわけで、データ保存をかねていろいろ草稿をここで書いてみる。もともと読者がほとんどいないうえに、ここ数ヶ月の放置でただでさえ数が少ない読者もほぼ壊滅したであろうから、心置きなく書ける。
まずは史料の引用から。
従来『新羅之記録』から、下国安藤氏が十三湊から没落したのは嘉吉二年とされてきた。しかし『満済准后日記』の下の記事が着目され、『新羅之記録』との不整合が問題になった。

奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢取負。エソカ島ヘ没落云々。和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也。重可被仰遣条可為何様哉、各意見可申入旨畠山、山名、赤松ニ可相尋処、畠山重可申入云々。山名、赤松ハ重可被仰遣条尤宜存云々。
満済准后日記』永享四年十月二十一日条

そもそも『新羅之記録』が非常に怪しい史料であることは通説であり、脱構築が必要な史料であるのは北方史研究者の共通理解なのであるから、『新羅之記録』と矛盾する史料が出て来たら、さっさと『新羅之記録』の過ちを認めたらよさそうなものだが、何としても『新羅之記録』の信頼性を保持したいと思っているのか、いろいろと解釈をこねまわす事例がある。私の意見を言えば、それこそが中世日本と北アジアの関係史(いわゆる中世北方史)研究の妨げになっているように思えてならない。
例えば次の『満済准后日記』の記事を取り出して、「室町幕府の強力な説得」によって一旦下国安藤氏は十三湊に帰還できた、とみる見解がある。もはやウィキペディアにも「近年の有力説」として「十三湊の発掘結果等からも支持されている」とまで書かれている(安藤康季 - Wikipedia)。

南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々。以上畠山意見二カ条。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。
満済准后日記』永享四年十一月十五日

その中でも最も多くの人に目に触れるであろう榎森進氏の『アイヌの歴史』(草風館、2007年)における当該史料の解釈をあげておこう。

南部氏に対し下国安藤氏と『和睦』のことについて御内書をもって南部方に指示すべきである。もしそれでも南部氏が承諾しないのであれば、御内書を曲解していることになり、それは許されないことである。陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきである。いまさら躊躇すべきではない。これが畠山の意見二か条である。山名も南部へ御内書を送ることは畠山と同意見である。(120頁)

この史料解釈には問題が多い。私はかつてこの問題を取り上げた(2007-09-04 - 我が九条)。しかし蟷螂の斧のような過疎ブログで榎森氏のような偉大な存在に立ち向かっても、当たり前だが何の意味もなく、今や通説として普通に通用している。今回もしつこくとりあげるが、幸いにして学術の場で発表する機会を与えられた。その下書きとしてここに残しておく。
榎森氏の解釈の問題
まずはこの文を地の文と引用文に分ける。
「『南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出』事、『若不承引者、御内書等不可有其曲歟』事、『遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代』事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦」云々。以上畠山意見二カ条。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。
「 」の中身が畠山満家の「意見」である。「事」というのが、しばしば引用符の働きをしているのが見て取れる。特に「歟」という終助詞との絡みがポイントであって、「○○事歟」とあれば、「○○事」歟ということであるし、「○○歟事」とあれば、「○○歟」事である。つまり「『若不承引者、御内書等不可有其曲歟』事」というのは、満家の言葉ではない。「若不承引者、御内書等不可有其曲歟」という他人の見解を提示しつつ、その見解に対する満家の見解を述べているのである。従って「御内書をもって南部方に指示すべきである。」という釈文は誤訳である。しかもどこにも「それでも」という言葉、あるいはそれを含意するような表現はない。さらに「歟」という表現を完全に無視している。
さらに「不可有其曲歟」を「曲解していることになり、それは許されないことである」と訳するのも誤訳としかいいようがない。「曲」というのは「ある状況に対応してなされる、もっともふさわしいやり方」(時代別国語大辞典 室町時代編)であり、「曲無し」というのは「適切な配慮に欠けるさま」である。つまり「曲」というのはプラスの意味を含意する言葉であって、「曲解」のようにマイナスの意味を持つ言葉ではない。だから「承引しないのであれば、御内書はふさわしいやり方とはいえないのではないか」と訳されなければならない。なぜ「御内書」が「ふさわしいやり方とはいえない」のか、ということについては、その言葉を発した主体である足利義教の政治思想も絡めて考えられなければならない。結論だけを言えば、義教は極めて「外聞」(メンツ)を気にする傾向が強い。すでに室町幕府からの和睦の斡旋を南部氏が拒否している以上、南部氏が再度義教の命令を無視すれば、義教の威光が傷つくと、義教は考えて御内書の発給を躊躇しているのである。
「遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代」という部分を「遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない」としているのも、「どのような御成敗」の中身が不明ながら、強い姿勢で臨むことを意味しているのは榎森氏が「幕府の強力な説得」と述べていることからも間違いはないであろう。しかし「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣之事ハ非当御代計候。等持寺殿以来代々此御計ニテ候ケル由伝承様候」(『満済准后日記』永享四年三月十六日条)という満済の発言を見る限り、榎森氏の解釈は成り立たない。何しろ「不如意」であっても「ヨキ程ニテ被閣」のは「非当御代計」なのだから。そもそも室町幕府足利義教も含めて「遠国宥和策」を取ってきたことは、室町幕府研究の通説である。
この榎森氏の『アイヌ民族の歴史』における訳語をしつこく取り上げるのは、榎森氏が「下国安藤氏が名実共に夷島に敗走するにいたったのは嘉吉三年のことであるとする解釈が次第に有力な見解になってきている」(同書120頁)と述べ、事実十三湊の発掘調査に携わってきた榊原慈高氏も、2008年の論功で永享年間の下国安藤氏の没落後、復活したという見解を「考古資料と文献史料の整合性」というトピックで示している(「津軽十三湊の変遷」『中世北東アジアとアイヌ』285頁)。しかし氏は2004年段階では入間田宣夫氏の見解に従って安藤氏の二度没落説を紹介しながらも「安藤氏が十三湊を退去したあとも十三湊には都市住民が一定程度住みつづけていたと考えています」と述べるにとどまり、氏自身の見解として二度没落説を提示してはいない。2008年では嘉吉二年に下国安藤氏が没落した「事件の背景には前年の嘉吉元年六月に起きた『嘉吉の乱』の影響が大きいと考えられる」として、下国安藤氏が室町幕府の後押しを得て十三湊に戻ったことを無条件に認定している。しかしその見解は誤訳と室町幕府体制に対する無理解から来る、根拠の無い憶断にすぎない。現状ではのど没落説を積極的に否定する根拠もないが、それを裏付ける確実な資料も存在しないのである。にも関わらず、さしたる根拠もない見解が「文献史学の成果」として考古学の補強に使われ、それがまた文献史学の成果を裏付けるという現状は、非常に問題がある、と考えている。

ちなみに私の訳は以下の通り。

「南部氏に対し、下国安藤氏との和睦のことについて、御内書で指示すべきかどうか、という事について、「もし南部氏が承引しないのであれば、御内書を出すという事は南部氏が下国安藤氏を蝦夷が島に追い落とした状況に対応してなされる行為としてはふさわしくないのではないか」という室町殿の見解について、「遠国のことの成敗についてはいつものことであり、当御代に限ったことではない」ということである。よって御内書を遣わされるべきかどうか、ということに関しては全く問題はない(遣わすべきである)。以上が畠山の意見二ケ条である(他に伊賀国の問題についても満家は答えている)。山名も御内書の事については畠山と同意見である。

そこで足利義教畠山満家の政治姿勢について見ておく必要がある。それはまたあとで。