『満済准后日記』に関する北方史研究者の解釈を駁す2

「御内書等不可有其曲」という部分の解釈を榎森進氏は「御内書を曲解していることになり、それは許されないことである」と解釈し、私は「御内書を出すという事は(南部氏が下国安藤氏を蝦夷が島に追い落とした状況に対応してなされる行為としては)ふさわしくない」と解釈した。私はこの部分の発言者を足利義教と考えている。
義教は御内書を出すことを「ふさわしくない」と考えていたのである。それに対して畠山満家が「御内書可被成遣条、更不可有苦」つまり「御内書の発給については躊躇すべきではない」と答えているのである。榎森氏の解釈では、誰に対して「躊躇すべきではない」と言っているのか、よくわからない解釈になってしまっている。
義教が「ふさわしくない」と考えた状況とはどんな状況なのだろうか。それを如実に示すのが一色義貫供奉拒否事件における義教と満家のやりとりである。

「一色(義貫)今度一騎打不参事、可有切諌歟」之由、畠山(満家)山名(時煕)両人ニ以密々儀被仰談了。山名事ハ自此門跡(満済)上意趣申遣了。畠山方ヘハ以同修理大夫(畠山満慶)被仰出了。山名意見趣、「暫被止出仕、追所領一二ヶ所モ可被借召歟。」以此由則申了。畠山意見、「御切諌事ハ雖尤候。可被閣是非条、於身可畏入候。雖然一年モ二年モ上意クツロカサル御体、殊可然存」之由内々申入候歟。(『満済准后日記』永享二年八月六日条)

山名時煕畠山満家に一色義貫の不参に関する処罰を諮問したところ、時煕からは出仕停止と所領一二ヶ所没収という意見だったが、満家は「上意クツロガサル」つまり義教に余裕がない、となじったのである。
これだけでは満家の主張がはっきりしないので、翌日の義教のコメントを見ておこう。

被仰出様、「畠山意見ハ事始也。毎事以無為儀可被閣条、可然由頻申入也。此儀可為何様哉。簡要公方様御為無後難様、可申入意見」由、重可仰遣山名云々。次畠山ニモ此由可仰遣云々。「可被閣是非由申入ハ、只一向無為儀計ニテ申入分歟。今度振舞違背上意任雅意条、無御切諌ハ、関東鎮西ヘ聞モ不可然由被思食如何。次ニハ雖被閣是非、公方御為御難モ無ク、又御威勢モ不可失事歟。委細可申入」云々。(『満済准后日記』永享二年八月七日条)

義教は満家の「上意クツロカサル」という答申に対して「畠山意見ハ事始也」と批判する。「事始」というのは、本来は仕事・行事などに着手する、あるいはその行事、特に新年の最初の行事を祝意を込めてすること、であるが、この場合満家を批判している文脈であるから、比喩として使われている。桜井英治氏は「いつも同じ、馬鹿の一つ覚え」と解釈している(『室町人の精神』119頁)。要するに、いつも「無為儀」ばかりを主張する、ということである。義教は処罰がなければ「関東鎮西ヘ聞モ不可然」と「聞」を気にし、さらに「雖被閣是非、公方御為御難モ無ク、又御威勢モ不可失事歟」と自分の「威勢」が傷つくことを心配している。
それに対する満家の返事。ちなみにこれは義教が満家と時煕にそれぞれ「意見」を求めているのであって、この両者は対面しているわけではない。義教から満家への使者は、満家の弟の満慶が務めている。時煕へは満済が取次を行っている。そして満家からは遊佐国盛が使者として満家の返事を持ってきた。

仍遊佐(国盛)帰参申様「一色今度違背上意条、以外事候間、可有御切諌之由、被仰出条ハ尤候。先度如申入。面々依執申入。可被閣是非条、且不可後難、御威モ又不可失」云々。(『満済准后日記』永享二年八月八日条)

満家は処分を保留しても「不可後難、御威モ又不可失」という。
しかし義教は納得しない。十日に次のようにいう。以下は義教の発言だけを抜き出した。

今度一色御切諌有ヘキ雑説ニ付テ、一色振舞以外過分心中。タトヘハ資財ヲ他所ヘ白昼ニ運遣。及夜陰ハ甲冑ヲ帯シ、被下打手ヲ一箭仕、可切腹由其沙汰。仍去七日八日両夜、諸方騒動無申限。此条狼藉第一也。面々執申入事ハ雖去事、可有御免条定口遊有ラン歟。

資財を白昼に運び出し、夜には甲冑を着けて「一箭仕らん」とか「切腹」とか大騒ぎした結果、あちこちで騒動が起こった。それを許しては「口遊」(興味本位に人々があれこれ噂をすること)があるだろう、と義教は心配する。
それに対する満家の返事は激烈である。

於其身振舞者、曾不可成御難、其身ノ未練ニテコソ候ヘ

問題が起こるのは行動の結果ではなく、覚悟が伴わないからだ、と義教に厳しい言葉を投げつけ、一気に赦免を迫ったのである。要するに赦免をしたからといって、「口遊」などの「御難」があるわけではない、「未練」つまり覚悟が出来ていないから「御難」も「威勢を失う」ことも出てくるのだ、と言っているのである。いや、政治家にとって覚悟の存在は大きいということは、現代でも通じる話だな。
満家はさらに「内々」に斯波義淳、細川持之山名時煕、細川持常(なぜか『満済准后日記索引』には記載がない。多分遺漏だと思う)、赤松満祐に「申談」して赦免を義教に迫り、結局赦免を勝ち取るのである。
桜井英治氏はこの一件について、義教がいかに「外聞」にこだわったか、ということに着目し、満家の「無為」の政治と将軍のメンツの葛藤の中で前期義教政権の政策が決定されたことを指摘している。
下国康季と南部義政の件に付いても同じ図式で整理できそうだ。御内書を発給し、それが南部氏に拒否されることによる「威勢」の失墜を気にして「御内書等不可有其曲」と御内書の発給を躊躇する義教、対して「無為」のため、御内書の発給を「更不可有苦」つまり「躊躇すべきではない」と迫る満家という図式なのである。榎森氏は「下国安藤氏を十三湊に復帰させるために南部氏に対する幕府の強力な説得策を推進するうえで主導権を発揮したのは、まさに将軍義教であったものとみて間違いないであろう」(『アイヌ民族の歴史』119頁)としているが、実際には主導権を発揮したのは義教ではなく、満家である。将軍のメンツにこだわる義教は非常に及び腰で、南部氏から拒否されることを異常に恐れているのである。「無為」を重んずる満家も南部氏から義教が黙殺されることは織り込み済みで義教に「躊躇すべきではない」と迫っているのである。
ここで一つ疑問が起こる。なぜ満家はかくも下国氏救援に熱心なのか。九州で大友氏と大内氏が合戦になり、両者の仲介を義教が行なおうとした時に反対したのが満家であった。満家は「大内、大友不拘御成敗、輿大友及弓矢者、可為私儀歟之間、不可有御下知限」という。つまり「大内と大友が幕府の処置に従わず合戦をするのであれば、それは私戦であるから、幕府は支援をしない」ということである。下国氏と南部氏の争いとは百八十度異なる対応である。下国氏に対しては、満家は何らかの関係があるものとみてよいだろう。「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣」という幕府の遠国政策に忠実に従えば、「可為私儀歟之間、不可有御下知限」(『満済准后日記』永享四年二月十三日条)という姿勢が正しいのであって、御内書が無視されて将軍のメンツが傷つく自体を回避する方が、方針としては一貫しているからである。
この疑問に関しては、なぜ下国康季が若狭国の羽賀寺を再興したのか、という問題と関わってくる。通説では十三湊に復帰できたからこそ羽賀寺を復興することが可能だった、ということになろうが、そもそもなぜ羽賀寺なのか、ということは説明されていない。今回長々と一色義貫供奉拒否事件を取り上げたのは、この事件の顛末が、下国康季の羽賀寺再興と密接に関わってくるからである。特に今回とりあげた一色義貫供奉拒否事件と、それをめぐる義教と満家のやりとりは、下国康季はなぜ羽賀寺を再興したのか、という疑問への回答となっているのである。そしてそれを明らかにした時、室町幕府と下国氏の背後に存在するアイヌとを結ぶ回路も浮かび上がってくるのである。
ごくごく大ざっぱに言えば、畠山満家が下国康季の「重臣奉行」あるいは「取次」を務めていた蓋然性が高いこと、そして満家と下国氏の間を仲介していたのが若狭国守護の一色義貫だったこと。
満家は永享五年九月に死去する。満家の死は義教の暴走を掣肘する存在がなくなったことを意味する。満家の死以後、義教政権は将軍権力の強化に狂奔し、迷走していくのである。
満家という有力な後ろ盾を失った下国康季は、一色義貫との結びつきをさらに強めるために義貫の分国若狭国の羽賀寺の再建を行ったのではないだろうか。ちなみに十三湊復興で忙しい時には羽賀寺の復興をするのは難しいのではないだろうか。むしろ羽賀寺復興は十三湊への復帰を室町幕府に後押ししてもらうために行った、と見る方が自然ではないだろうか。実際は私としては十三湊に一旦復帰しようが、しまいが、どちらでもいいんだけど、ただどうしても復帰した、という説明には無理を感じるのである。
下国氏のもう一つの頼みの綱であった一色義貫は永享十二年に義教の命を受けた武田信栄によって暗殺され、若狭国守護は武田信栄になる。永享十三(二月に嘉吉改元)年正月には満家の嫡子の畠山持国が失脚する。嘉吉の乱を待たずに下国氏は京都における足がかりを喪失していたのである。