史料論

Aという史料がある。Bという史料がある。これらの史料は書かれていることが矛盾する。この場合、AかBかどちらかの史料は信用できない。どちらを信用すべきか、という問題が出てくるわけだ。一番信用できるのが古文書である。そして古記録となる。編纂物は史料としては信用性が低いとされる。後世の著述になれば、信用性はもっと下落する。
何が書きたいか、というと、津軽安藤氏の出自についてである。津軽安藤氏が得宗御内人であったことはほぼ史料上動かないとみてよい。これは当時の文書史料でほぼ確かめられる。津軽安藤氏の内訌を管理しているのが得宗公文所だからである。あるいは得宗領の地頭代官職を世襲していたことも、譲状から明らかである。で、現在の通説では津軽安藤氏は土着の豪族を得宗が登用した、ということになっている。系図には長随彦や安倍氏を先祖とする、とある。しかしこれらの系図はいずれも室町時代から江戸時代に編纂されたものである。もちろんそのまま信用は出来ない。しかし通説では、安藤氏が安倍貞任の子孫を自称したのには、安藤氏が東北地方の土着の武士団だったからだ、とみる。東北各地に「安藤」という武士団がいることをとらえて、安藤氏は各自の独立性が高い党的結合をしている、松浦党のような武士団だったとみる見解もある。
私はこの十五年ほど、その見解を疑っている。私は『地蔵菩薩霊験記』に書いてある安藤五郎に着目した。そこにははっきり「鎌倉ニ安藤五郎トテ武芸ニ名ヲ得タル人アリケリ」とある。安藤五郎は鎌倉にいて、「公命ニヨリテ夷嶋ニ発向シ容易夷敵ヲ亡其貢ヲソナヘサセケレバ」とある。
津軽安藤氏が安倍氏の流れを引く蝦夷系武士団である、という記述は一番古くて1350年代の『諏訪大明神縁起絵詞』である。そしてそれ以降多くの安藤氏絡みの記述では安藤氏は安倍氏の流れを引く蝦夷系武士団で一致している。そしてこの記述と『地蔵菩薩霊験記』では矛盾する。
従来は『地蔵菩薩霊験記』を黙殺し、気にも留めてこなかったのであるが、私にはそれが引っかかって仕方がない。『地蔵菩薩霊験記』の安藤五郎の話がいつごろ出来たのか、はまだ調べがついていないが、安藤五郎を他の多くの史料のように蝦夷系武士団としていない、それどころか安藤五郎を蝦夷と対立するものと見る見方の方が古い形を残しているのではないか、と考えるのである。そう考えた方が、日蓮の書状に出てくる安藤五郎の業績と矛盾しない。日蓮によると「安藤五郎は因果の道理を弁て堂塔多く造りし善人也。いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ」ということである。地蔵菩薩を信仰し、それを蝦夷に布教した、という『地蔵菩薩霊験記』の記述と、日蓮の記述は矛盾しない。とすれば、安藤五郎はやはり得宗御内人として派遣され、蝦夷沙汰を遂行する必要から自らを蝦夷系武士団として位置付けて行ったのではないだろうか、と思うのである。彼等が蝦夷系武士団であることを自己主張していることは、必ずしも彼等の出自が津軽土着の豪族であったことを意味しない。津軽安藤氏像は大幅に書き替えられる必要がある。『東日流外三郡誌』的な「安東水軍」像から脱却すべきであろう。