中世における天皇の途絶

承久の乱の首謀者となった後鳥羽上皇の皇統を皇位から外し、後高倉院の皇統を皇位に就けた鎌倉幕府だが、後高倉院の皇統は後堀河−四条と来て、四条の夭逝によって途絶する。王家には後鳥羽の子孫しかいなくなったのだ。九条道家佐渡流罪になった順徳上皇の皇子忠成王を推挙した。道家は当時の幕府の将軍であった藤原頼経の父に当たっており、朝幕に影響力を行使しうる立場にあって、皇位も自分の思い通りになると踏んだのであろう。しかし幕府は討幕に積極的にかかわった順徳の皇子が即位することで、当時まだ存命であった順徳の帰京が実現する可能性を考慮し、土御門上皇の皇子邦仁王を皇位に就けた。邦仁王の母の実家である土御門家は、かつては鎌倉幕府と激しく角逐し、九条家を一旦失脚に追いやった土御門通親がいたが、通親の子の定通は北条泰時・重時の妹を側室にしており、北条氏と姻戚関係を結んでいた、という事情もある。
北条氏は強硬に邦仁王即位を主張し、ために皇位は十一日間空位となったすえに邦仁王が即位することになった。朝廷では忠成王即位を見込んで衣装などを作成しており、邦仁王の体にはあわず、不格好な形で即位式を行なうことを余儀なくされた。泰時は子息の時氏に対して、もし忠成王が即位していたら引きずり下ろせ、と厳命していた、という。道家が強行していたら、再度の「廃帝」が出現するところであった。