矢不来館

矢不来と言えば江差線の矢不来信号所があるところ。茂別茂辺地駅の隣。茂辺地=茂別と言えば安東氏の一族下国家政がいたところ。茂別館は道南十二館の一つでコシャマイン戦争のときも持ちこたえた、と『新羅之記録』にも書かれているが、矢不来館は道南十二館に入っていない。その館でコシャマイン戦争直後のころの遺物が発掘調査で出てきた、という話。弘前大学などの共同プロジェクトで、北海道の内国化を検討する、という。これは私にとっても無視できない話だ。
北海道新聞五月二十八日

地名から矢不来館と名づけられた館跡の一部を掘った昨年の調査では「これは一体、何だろう」と考古学の専門家も首をひねるような遺物が次々、出土した。
足利将軍家の書院の絵図面と照合して、ようやく謎が解けた」と関根教授。遺物は香炉や茶道具、書院の壁に使われた銅製の折れ鉤の部分などで、これまで高い防御性ばかりが注目されていた館に、本州の戦国大名の居館のように茶会を開く書院も備わっていた可能性が浮上した。
茶入れは中国からの輸入品、水差しは国内に例がないヒョウタン形と判明。「本州以南で戦国大名が覇を争っていたころ、道南の勢力は『武装した商人集団』ぐらいの見方しかされてこなかった。しかし、出てきたものから、(室町幕府第8代将軍)足利義政やその側近である同朋衆の好みをよく理解し、財力とコネクションを使って貴重な品々を取りそろえることができた人物がいたと分かる」と関根教授は話す。
時代はアイヌ民族が蹶起して和人地に攻め込んだコシャマインの戦い(1457年)のすぐ後で、松前藩の記録では、道南の12館はこの戦いで花沢(檜山管内上ノ国町)、茂別(北斗市)の2館を残して陥落したとされる。ただ矢不来館は12館には数えられておらず、館の主の人物特定を含めて謎が当初からつきまとっていた。関根教授は東北地方で勢力争いに敗れ、蝦夷地に逃れて来た下国安東氏の一族が主ではないかと推測している。
結果を踏まえて研究グループは、道南の内国化はこのころまでに相当進んでおり、道南を戦国時代(16〜17世紀初頭)の地理的範囲に含む解釈も成り立つとみる。こんな津も同館の調査を続ける予定だ。(以下略)

この記事をみても、『新羅之記録』に書いてあることが到底信頼するに足りないことが分かる。『新羅之記録』にこだわる限り矢不来館の主は見えてこないだろう。可能性のあるのは現状3人。『新羅之記録』によるとその当時にはすでに本州に渡っていたとされる下国政季、茂別館で茂別守護を務めていた下国家政(政季の弟)、松前守護を務めていて陥落しアイヌに囚われた、とされる下国定季(政季の従弟)の三人だ。
下国定季は下国康季の子にあたる。つまり下国氏の嫡流にあたるのだ。後潟重季の子の政季や家政はいわば下国氏を簒奪した、と考えられている。定季が松前にいてアイヌに敗れ、捕虜になって武田信広に救出された、という伝承が信じるにたるかどうかも問われなければならない。実は定季の可能性は否定できない。しかし矢不来の近くの茂別館にいた、とされる家政の可能性も否定はできない。あるいは政季が湊氏の誘いをうけて檜山(秋田県)に移動した時期をコシャマイン戦争の前年、としなくてもいいかも知れない。
安東政季の偏諱足利義政から受けたもので、もともとの名前が師季とする推定が正しければ、応仁二年(1468年)の段階では政季ではなく師季であったことになる。家政も別の名前であったろう。京都との関係を強めつつ室町将軍家もしくは近い畠山政長から偏諱を受ける直前の後潟師季もしくは家政の可能性が高いと思う。家政のもとの名前であるが、安東氏の通字が「季」であることを考えると、「政」の名前を受けるときに「政季」「季政」とややこしくなることを避けるために「家政」という名前を付けた、と仮定すると、「家季」であったかもしれない。これは妄想でしかないが。
この発掘調査で北海道中世史を検討する際に『新羅之記録』に引きずられることが大きなマイナスであることが示された、と私は考える。
追記
今思いついたことがあった。矢不来館は考えれば茂別館に近く、しかもコシャマイン戦争時に陥落しなかったのが茂別館であることを考えると、矢不来館は茂別守護の下国家政の守護所であった、と考えられるのではないか、ということである。「矢不来館」と当時呼称されていたかどうか、私は知らないのだが、この矢不来遺跡こそ、当時「茂別館」と呼称されていたものと考えるのも突飛ではないだろう。とするとこの館の主の第一候補は下国家政である、と考えられよう。