十三湊陥落についての素朴な疑問

十三湊遺跡の発掘調査の結果、十三湊遺跡は大きく分けて三期に分かれる、という。第一期が十三世紀初頭から十四世紀中葉まで、前潟を中心にした時期。第二期が十四世紀初頭から十五世紀中葉まで、土塁の北側を中心にした時期。第三期が十五世紀の中葉の極短期間で、土塁の南側を中心とした時期。
これを文献史学と照らし合わせた結果、第一期が安藤氏の乱まで、第二期が安藤氏の最盛期で、十五世紀の中葉に南部氏に攻められて一旦没落するまで。それを裏付けるように焼亡跡と、土器の一括廃棄跡がある、という。第三期が室町幕府の仲介によって一旦十三湊を回復し、嘉吉の乱足利義教が殺されて室町幕府の勢力が衰退し、安藤氏が後ろ盾を失って再度没落するまで、という。
疑問が一つある。第三期の主を安藤氏と決めつけていいのだろうか。第二期に焼亡跡がみられるのは、第二期の遺跡の衰亡の原因が戦災にあることを示している。ところが第三期の遺跡から焼亡跡があった、という記述がない。まだ発掘調査書を全部読んだわけではないので断定を避けるが、少なくとも私が読んだ先行研究には、第二期の焼亡跡については触れられているが、第三期の焼亡跡については全く触れられていない。これは第三期の遺跡には焼亡跡がなかった、と解釈していいのだろうか。
もし焼亡跡が第二期にのみみられ、第三期に見られない、とすれば、第三期の遺跡の衰退原因は他のところに求められなければならない。一五六〇年ごろまでの可能性はあるようだから、十三湊の存立基盤であった京都対蝦夷地交易のルートが十三湊から別のところ、例えば最近発掘が勧められている矢不来遺跡に移ったから、十三湊が衰退した、と考えることも可能であろう。というよりも、『新羅之記録』に依拠しない限り、その方が自然である。
そもそも「関東大名」であった南部氏が、当時鎌倉公方と関係が悪化していた室町公方の仲介を受け入れる訳がない、と考える方が自然である。もっとも畠山満家の仲介がうまく行った可能性もないではないが、仲介を強く主張した満家自身うまく行くとは思っていないのは、以前指摘した通りである。
文献史料と考古資料の整合性を追及するのは重要なことであるが、肝心の文献史料の読みがいい加減ではいけない。そもそも信頼性の薄い『新羅之記録』とのつじつまを無理に合わせた結果、足利義教の御内書の影響力を過大に評価する、というのでは本末転倒である。
私はこの問題については次のように考える。
第二期の遺跡が衰亡したのは南部氏と下国氏の争いの中で下国氏が敗北し、十三湊は焼亡した。その後入った南部氏によって下国氏の本拠とは異なる場所(そもそも復活させるのであれば、なぜ以前の場所に復活しないのだろうか)に十三湊が再建された。しかし北海道に移った下国氏が京都とのつながりを通じて蝦夷地対京都の交易ルートを維持するために、道南に交易拠点を築き、十三湊を介さない交易ルートが完成したため、十五世紀中葉には南部氏は十三湊から撤退した、と。
道南の交易拠点の候補であるが、私は矢不来遺跡ではないか、と考えている。『新羅之記録』に記録がないために、従来評価されてこなかった矢不来遺跡であるが、発掘調査の結果、京都や明の陶磁器や茶道具が多く出土し、「足利義政やその側近である同朋衆の好みをよく理解し、財力とコネクションを使って貴重な品々を取りそろえることができた人物がいた」と考えられる矢不来遺跡が、コシャマイン戦争のころに最盛期を迎えていた、という発掘調査の結果そのものが、矢不来遺跡を「道南十二館」に数えていない『新羅之記録』の信頼性をさらに揺るがせるものである。さらに言えば矢不来遺跡の主であるが、以前私は下国家政を有力候補として挙げたが、その見解は『新羅之記録』に引っ張られたものであった。いっそ『新羅之記録』の記述を全く無視すれば、下国政季や下国家政よりも適切な人物がいる。室町殿周辺の好みを繁栄させた茶室をしつらえることができるだけの室町殿との密接な関係を保持していたのは、畠山満家を通じて足利義持以来密接な関係を保ちつづけた下国康季の子の下国定季こそふさわしい。『新羅之記録』では下国定季は松前館にいたことになっているが、『新羅之記録』では定季をアイヌに囚われた人物として、いわば貶めて記述している。定季の子の恒季が殺されることによって松前の主となった松前氏、政季流下国氏の代官として力を伸ばした松前氏にとっては、定季が康季の正当な後継者であることは、不都合な真実であった、と考えられる。定季に関する『新羅之記録』を当てにするのは危険である。
追記
第三期の中心をなす土塁南側地区については二次被熱を受けた陶磁器が非常に少ない、ということである。南側地区が衰亡したのは戦乱ではなく、別の要因であると思われる。