『福山秘府』巻之二(7)−天文十七年

同(天文)十七年*1戊申
松前年代記曰春依上国蠣崎太郎基広*2反逆露顕。因令長門藤六広益討之。
按基広者 勝巖公*3之弟次郎高広*4之子也。是時基広四十歳。見于永正六年。
亦按新羅記昔日〈享禄末乎〉有羽州庄内郡司土佐静林翁者、入洛時大将軍義晴卿賜翁茶釜矣。蓋其釜者建久四年癸丑夏五月鎌倉源大将軍頼朝卿於駿河国富士苗野陣営所用也。曰信夫釜。是歳 永安公*5使長門藤六広益使於羽州、請是釜静林翁。乃与之。于 永安公故伝以為家宝。
秋九月三日慶広生。南条広継*6守上国
按是 永安公第三子也。小字新三郎。母宇須岸館主河野加賀弥次郎右衛門越智季通*7之女也。南条者謂越中乎。按新羅記是歳造立愛宕山権現。宇松前西山司官阿吽寺*8快祐法印也。快祐者薦槌甲斐季通之孫也。其□*9者即永安公母公也*10
又按松前累世家譜〈元禄中所撰〉昔時尊氏将軍有賜花瓶于穐田庵主先祖庵主又贈之。季広因為家宝云々。
新羅記有秋田湯河湊左金吾安日尭季*11入洛。于時将軍義政*12賜花瓶于尭季。□*13後至湊安日茂季。之于季広云云花瓶高九寸青磁也。此忝(?)存于今華物也。

*1:1548年

*2:1501〜1548、蠣崎高広の子。

*3:蠣崎義広

*4:蠣崎光広の次男。

*5:蠣崎季広

*6:1529〜1562、蠣崎季広の長女の夫。蠣崎舜広と明石元広が暗殺された事件に関わり、自害。この事件は季広長女で広継室が弟に当たる舜広と元広を暗殺した。

*7:?〜1512、箱館館主。アイヌと戦い戦死。これ以降断絶していた河野家は約百年後に松前慶広六男が河野家を再興し、河野時広を名乗ったが、後に松前景広と改名する。それ以降河野系松前氏として河野氏の祭祀はこの家に継承される。新羅之記録には河野家に伝わった記録がかなり使われているとみられる。

*8:阿呼寺

*9:手書きの文字だが判読不能

*10:新羅之記録には「此快祐法印蔣土甲斐守之孫而季広朝臣之従兄弟也」とある。

*11:湊尭季、?〜1551年。

*12:1551年没の尭季が1490年没の足利義政に花瓶を賜うということはないだろう。上にある足利義晴が正しいと思われるが、あるいは下国政季あたりが足利義政に接近したことの記録が、尭季の上洛と間違われたか。実際に上洛した、という記録はなく、細川高国や証如との書状のやり取りがあるだけ。

*13:手書きの文字だが判読不能