「王女の男」をアジア史のパースペクティブに位置づけてみる
今みたい韓流ドラマ「王女の男」(多分見ない)。その舞台は「癸酉靖難」。1453年に朝鮮王朝で起きた王位簒奪事件である。
朝鮮王朝の最盛期を作り上げた世宗大王を継承したのが文宗だが、彼は病弱だった。彼が36歳で死去すると、王位は世嗣で11歳の弘暐が継承したが、文宗の弟の首陽大君が簒奪したのが「癸酉靖難」である。物語自体は文宗の重臣の金瑞宗(キム・ジョンソ)の子の金承琉(キム・スンユ)と、首陽大君の娘の李世伶(イ・セリョン)のラブストーリーを中心とした話なのだが、そこに申叔舟(シン・スクチュ)の子のシン・ミョンが金承琉の親友として登場する。
で、申叔舟だが、彼が書状官として来日したのが1443年のことである。申叔舟が来日したときの通信使の役割は、嘉吉の乱で落命した足利義教の致祭と、新将軍となった足利義勝の慶賀の使者である。しかし義勝は通信使と会見した一ヶ月後に死去し、弟の足利義政が襲位することになる。その混乱の中で管領の畠山持国や母の日野重子、側近の伊勢貞親、あるいは朝廷の後花園天皇による幕政への介入が行なわれ、室町殿=「日本国王」の権威は大きく揺らいでいた。通信使一行はおそらくは室町殿の権威が大きく揺らぐ現場を目の当たりにしたに違いない。
幼主の襲位に伴う室町殿権力の動揺を目の当たりにした申叔舟にとっては、幼主端宗を補佐する金瑞宗や皇甫仁(ファンボ・イン)などの顧命大臣(文宗の遺命をうけた重臣)は、幕政を壟断した畠山持国のように見えたかもしれない。申叔舟が来日したときに通信使尹仁甫は畠山持国ともめている。
また1449年には土木の変が起こっており、明の屋台骨も揺らいでいた。英宗の捕縛、景泰帝の即位、英宗の帰還と幽閉という形で明は表面上は平穏を取り戻していたが、景泰帝と英宗の対立は、当時の明にとって大きな不安定要因であっただろう。首陽大君と申叔舟が明に滞在したのはそういうさなかであった。日本で室町殿の権威が揺らぎ、明で皇帝の権威が傷つき、今朝鮮でも王の権威に大きな不安要因を抱える中、首陽大君と申叔舟は危機感を募らせた、としても不思議ではない。加えるに金瑞宗は明から独断を指摘されていた、という(「キム・ジョンソ | 韓国歴史ヒストリア」)。明にとっても金瑞宗は「望ましからざる人」だったのである。
明にとって「独断」とは何か。実はそれをうかがわせる記述が『明洪武実録』に存在する。細川頼之と交渉した明使の観察である。そこでは「幼君在位、臣檀擅*1国権」とある。「幼君在位」は後円融天皇と足利義満の両者を明使が弁別できなかった、あるいはする必要を感じていないことを意味する。「臣擅国権」とは、当時日本の最高実力者であった細川頼之である。このような日本の実情を快く思わなかった洪武帝は日本との交渉を打ち切ってしまう。「幼君在位、臣擅国権」を端宗と金瑞宗にあてはめると、明にとって、望ましくない国家の形が浮かび上がる。明との関係を維持するうえでも端宗ー金瑞宗体制を清算する必要は存在したのである。
ちなみに首陽大君=世祖が明にとって従順で扱いやすい「国王」だったかというと、どうもそうではなさそうだ。河内良弘氏の『明代女真史の研究』によると、兀良哈の対応をめぐって明と世祖王権は対立している。
そういや、本家靖難の変も洪武帝の後を継いだ孫の建文帝および側近を洪武帝の子で建文帝の叔父にあたる永楽帝が打倒し皇帝位を簒奪した事件だし、古くは壬申の乱も天智天皇の後を継承した天智天皇の子の大友皇子に対して天智天皇の弟で、大友皇子の叔父にあたる大海人皇子が大王位を簒奪した事件だから、よく起こる事件ではあるわけだ。後醍醐天皇にしたって、兄の遺児の邦良親王に皇位が継承されるのがいやで、最終的に鎌倉幕府打倒を考えるのだし、これも一種の弟による甥へのクーデターだな。