ラッコの初出をめぐって

ラッコがいつ日本の史料に出てくるのか。一つの問題は「独◻︎(けものへんに干)」をどう判断するか、ということである。アザラシ説、北方の犬説、ラッコ説がある。アザラシ説は「独◻︎」が「水豹」と並べて記されており、しかも「水豹」に「アザラシ」と訓が振ってあることを考えれば成り立たず、また北方の犬もそれが貴重なものであるとは考えられないことから、若月義小氏はラッコと考える。ただそれをラッコと考える積極的な論拠もないところから、通説では「安藤陸奥守宛室町殿御内書」をラッコの確実な初出としているようである。
もし8~9世紀の「独◻︎」がラッコであるとすれば、当時ラッコの生息域に分布していたオホーツク文化の荷負集団から擦文文化の荷負集団を通じて入手していたのだろうと考えられる。ということは、オホーツク文化の変動、オホーツク文化と擦文文化との関係の変動、擦文文化と日本との関係の変動のいずれかが起こればラッコも入手できなくなる。
その後アイヌ文化の成立を経て千島列島にもアイヌが進出して行くと、ラッコがやってくるルートは千島アイヌ→北海道アイヌ→日本となる。ここでも千島アイヌ、北海道アイヌ、日本のそれぞれ乃至は相互の関係に変動があればラッコの入手も途絶えることになる。逆に言えば、ラッコが流通する条件としては、千島アイヌが北千島においてラッコの安定した供給を継続すること、千島アイヌと北海道アイヌが継続的に交易関係を継続すること、北海道アイヌと日本が安定した関係を継続することが必要である。
ラッコの流通を規定する要因の中で一番探究しやすいのは、北海道アイヌと日本の関係であろう。北海道アイヌに対する日本側の体制の変動を検討すれば、そこから当該期の北海道アイヌの姿も少しは浮かび上がらせることも可能であろう。ラッコの流通状況を検討することで、列島北方海域の変動を知ることができるのではないか、と考えている。
実はラッコの流通状況は比較的容易に想定できる。結論から言えば、かなり少ない。松前慶広が豊臣秀吉に献上したラッコの皮が三枚であったことがその実情を物語っていよう。それを考えると安藤陸奥守が献上したラッコの皮三十枚というのが如何に破格であったかがうかがえる。