御前落居記録


北野宮祠官権律師明兼申す、伊勢国長太・石津・加納・堀江等領家職の事、「去る永和・嘉慶年中、不知行の地を以て御寄附の間、粉骨を致し、安堵せしめ、門跡〈聖護院〉の素意を得、当宮領目録に入れおわんぬ。仍て知行の処、永琳院を語らい、門跡御師と号し半分を以て寄進せらる。契約に背き、押領の条、嘆き入る」と云々。
聖護院雑掌の申すが如くんば、「明兼の先師明什不儀の間、変改の旨之を差し申す」と雖も、其の證不分明の上、先度社家に対してたびたび御教書を申し給わり、忠節を致すの上は、不儀といい難きか。即ち還補の御判を権律師明兼に下されおわんぬ。
永享二年九月二日     肥前守為種
             加賀守基貞

訴人(原告) 北野天満宮祠官の権律師明兼
論人(被告) 聖護院
経緯
永和(1375〜1379)・嘉慶(1387〜1389)年中に不知行の地ということで聖護院より御寄附されたので、粉骨の努力で安堵を得て門跡の意思を得て北野天満宮領に入れた。そこで知行していたところ、永琳院(北野社の坊官、禅慶)を語らって門跡御師と称して半分を聖護院に寄付してしまった。契約に背き、押領(権利を侵害すること)することについて嘆き入っております、ということである。
聖護院雑掌のいうには、「明兼の師匠の明什が不義を働いたので領家職を変えたことを申しております」と主張しているが、その証明がなされていない上に、昔から社家(北野天満宮)に対して(聖護院が)御教書を給わって、それに対して社家が忠節を致しているので、不義とは言い難いだろう。そこで還補(もとに戻すこと)の御判御教書を権律師明兼に下された。
日下(日付の下)に署名している人が執筆者。従ってこの記録は飯尾為種が執筆。為種は判決書を執筆してから記録を執筆している。