対訳『椿葉記』12

かくて同年五月に萩原殿の前坊崩御成ぬ。かの御領どもは室町女院〈後堀河院御女〉御遺領なり。前坊御一期の後には宗領に返付せらるべき由、光厳院殿御置文あり。始終は伏見殿御管領あるべしよし、前坊御在世の時法皇へ申をかる。此子細准后きき披かれて、室町院領の中七个所と萩原殿の御所とを伏見殿へ進せらる。

萩原殿の前坊-前坊は皇太子のこと。萩原殿は花園院皇子直仁親王親王は崇光院の皇太子であったが、正平の一統で廃される。
室町院領-鳥羽院から後白河院後鳥羽院を経て御高倉院、式乾門院から室町院に伝領されたもの。室町院死後は永嘉門院(宗尊親王娘の瑞子女王)と天皇家に分けられ、最終的に亀山院と伏見院で折半された。伏見院伝領の分が花園院に伝領されたのである。
法皇-崇光院。
宗領-本家。ここでは伏見宮家のこと。

そして同年五月に萩原殿の元皇太子直仁親王が亡くなった。その御領は室町院領である。直仁親王が亡くなった後には伏見宮家に返されるべきである、という光厳院の置文があった。最終的には栄仁親王管領するように、と直仁親王の生前に光厳院から崇光院に遺言があった。この事情を准后(義満)がお聞きになって、室町院領の中の七ヶ所と萩原殿の御所とを栄仁親王に返された。