北の戦国時代論について

新羅之記録』に「自康正二年夏迪大永五年春、破東西数十日程中住所村々里々、殺者某事、起元於志濃里鍛治屋村也。活残人集住皆松前与天河」とあることを根拠にして15世紀半ばから16世紀半ばまでアイヌと和人が戦争状態だった、とされている。しかし発掘成果からはそれを否定するものも上がりつつある。
で、『新羅之記録』を見てみるとそもそも16世紀前半にならないと和人とアイヌの戦闘記事が出てこない。康正二年というのが武田信広の原点とされているのでやたら強調されているので、一連の流れとして把握したくなるのだろうが、そこから疑うべきではないか、と最近考えている。
それとだまし討ちの件だが、いまふと思ったのは、信広の伯父に当たるとされている武田信栄が一色義貫を討った時もそうだったな、と。