受験テクニックと読解

ガッシュさんのコメントより。

読解力があっても、そういう解説をきちんと聞いたことがないと、なかなか解答としての正解は得られないのかも…。

こういう国語独自の問題について石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書、一九九九年)において次のように述べられている。

僕たちはゲームをする時には、はじめにルールを教えてもらう。そういうことをすればよいのか、何をしてはいけないのか、あるいはどうすれば高い得点が得られるのか、そういうことを学ぶ。ところが「国語」という教科ではルールがあるにもかかわらず、それを教えてくれない。いや、ルールを学ぶことが「国語」という教科の目的だと考えられているのだ。
「自由に書きなさい」といわれても、それはまやかしでしかない。ルールに違反すればバツがつけられる。それなのに、そのルール自体はいつまで経っても教えてもらえない。これは実にアン・フェアーなことだ。このことが「国語」という教科を難しくさせているのだ。

で、石原氏はルールについて「国語」という教科は道徳教育にある、としている。で、実際にそうなのだ。
例えば鳥が飛んでいる写真を見せて一言、「これを見て感じたことを作文にしなさい」という問題が実際にあった。もちろん作文とても、例外ではない。ルールに従わねばならない。例えば「焼き鳥にしたらおいしそう」という作文を書くというのは、かなり微妙だろう。私は好きだが。あるいは鳥を虐待するその様子を詳しく書いたら、間違いなく公安当局にマークされること間違いなし。もちろん、鳥が飛ぶように私も成長して行きたい、という内容をぐだぐだと書くのが正しいありかただ。あとはそれをいかに分かりやすく、また丁寧に、また作文の形式を正しく守っているか、という勝負なのだ。そこで独創性が求められているわけでは決してない。「独創的な発想」を作文に求めること自体まやかしである。
もう一つ例を。飯盒炊さんらしい写真。これを見て和歌山カレー事件の問題を延々と答えたらどうなるだろうか?間違いなく叱られるだろう。もちろん楽しい遠足の想い出(うざい遠足の想い出はだめ、たとえうざかったとしても楽しいことにしておく)と、そこから学んだ友情の大切さを書くこと。ひねりようはある。例えば飯盒炊さんでもめて友情が壊れたとしてもそれ自体は題材になる。そこから自分が何らかの成長を遂げたことを書けば良いのだ。殺意を覚えた、ことから自我に目覚めた、多いに結構だ。「殺意」などというタブーすら道徳的にまとめることはできる。しかしポイントは道徳的にまとめることだ。友情、成長、ほのかな恋愛(もちろんずぶずぶの恋愛はだめ)など、キーワードはいくつかある。しかしあくまでも「道徳的」という範囲を逸脱しないこと。
こうして見ると、無限大に見える国語の解答も意外と限定されることがわかるでしょ?いくつかのパターンを押さえること。これが国語のコツ。
そういえば十年ほど昔、以前勤めていた塾での話だが、同和教育の作文を相談している生徒がいて、○○(滋賀県内の市)校の室長が「当たり障りの内容に書きなさい」というアドバイスをしていたが、とんでもないアドバイスだ。同和問題における「道徳的」とは差別を憎む熱い心でなければならない。「当たり障りのない」文章など、同和問題の局面においては非道徳的でしかない。その室長、会社での出世ばかり夢見てゴマばかりすっていたから、社内文書と勘違いしたんだろうな。TPOを弁えよう。のど元まで「そりゃまずいで」と出かかったが、私は以前その室長の授業内容に少し口を差し挟んで、ひどい目に合ったので黙っていたけど。