変な季語

変な季語シリーズ。今日はなめくじ。私はなめくじが何よりも苦手だ。あれを見ると体が硬直する。見たら「塩!塩!」とばかり塩を馬鹿みたいにかけて、放置。とにかく苦手。こんなものを季語にするのが、理解不能だが、シャボン玉と違い、かなり古くから季語として制定されているようだ。一六四五年の「毛吹草」というから驚く。そもそもナメクジを見て気持ち悪い、と考えるのもおおかた近代的発想の産物だろうから、江戸時代の方がナメクジに対する抵抗は少なかったのだろう。そもそもウンコが汚いものとして発想されるのもパスツール以降だともいうし、ナメクジにいたっては、私の父親は素手で触れる、という。もっとも私は蛇を捕まえる名手だったから、蛇嫌いにとっては信じられないかも知れない。また私はアワビもサザエも好きだが、これも考えれば巻き貝だから似たようなものかも知れない。ナマコも海にいれば絶対にかかわり合いになりたくないが、酢の物は好きだったりする。ちなみに私の同僚でナメクジは全く平気だが、寄生虫を媒介する、ということを知ってから触らなくなった、という人もいる。
想い出はさておき、句を見ておこう。金子兜太の句。
 なめくじり 寂光を負い 鶏のそば  金子兜太
季語は「なめくじり」三夏(夏ならばどこでもOKと言う意味)。「寂光」とは「真理の寂静なることと真智の光」とある。なめくじのぬらぬらを「寂光」という宗教的な世界に高めているところが面白い。で、鶏のそばにいる。鶏は間違いなくなめくじを食べるだろう。一瞬の生と死の交錯。間もなくその生を終えようとするなめくじ。その背中には真智の光が宿っている。金子兜太らしく、ここでも色々なことをなめくじに読み込んでいる。
ってやっぱりなめくじはいやだ。