勉強が出来ること

勉強が出来る人、というのは何が出来るのでしょうか。その鍵はハビトゥスと言われる概念にあります。ハビトゥスは「慣習」とも訳されますが、微妙に違うような気がします。ハビトゥスとはその人の身に付いた文化の型のことです。このハビトゥスの違いが階層の違いを生み出します。このことを考察したのがフランスの社会学ピエール・ブルデューです。
ハビトゥスとリプロダクシオンというブルデュー社会学のキー概念を分かりやすくいいますと、

勉強ができた親は、勉強ができることによって得られる利益(金銭的な意味だけでなく、もっと広く人生全般における利益)を知っているため、自身の子供が勉強できるように育てようとする。また自分の経験から、勉強できるようになるために必要な心的姿勢や勉強方法などを教えることにも長けているから。(がっしゅ氏によるコメント)

となります。勉強が出来ることによって得られる利益のことをブルデューは「文化資本」と名づけたわけです。そして勉強が出来るようになるために必要な方法などを教えることをリプロダクシオン(再生産)というわけです。
これがわかりますと話は簡単です。勉強が出来る人は、そういうハビトゥスが身に付いている階層に属している人のことです。それだけです。現在最も文化資本が高い社会階層の人々は「専門職・管理職」という階層です。大企業の管理職・中小企業の経営者・弁護士・医者・上級職公務員・大学教授などです。東京大学に通っているのは、基本的に「専門職・管理職」に属する人の子供です。京都大学もそれに属します。ちなみに親の年収が一番高い大学は、医大をのぞきますと東京大学だそうです。従って「専門職・管理職」のハビトゥスにその鍵があります。
この階層のハビトゥスとは何か。石原千秋氏は「学校制度に対する適応力」としています。つまり勉強が出来る人は「学校制度に対する適応力」が高い人のことなのです。逆に言えばそれだけです。石原氏はそのことを踏まえて次のように言っています。

中学受験で純粋に子供の能力だけが試されていると考えるのは、むしろ甘い夢にすぎない

そのことを自覚していないと、子供を追いつめることになる」

と。

勉強ができなぃ親からできる子が生まれる、、。なんでだろぅ。気になります、、。もしかして「こんな親にはなりたくねぇ〜ょ!」って感じで親が反面教師になってるのでしょうか?^^;

というゆうか様の疑問にもこれで答えが出ます。勉強が出来ない親は学校制度への適応力がない人です。学校制度への適応力は後天的に獲得されるものでありますから、本人の努力で何とかなります。高校生になると親は勉強に絡んできません。予備校でも塾でもどこか行って、学校制度への適応力をつけるチャンスは常にあります。逆に親が学校制度に高い適応力を示しても、子供を放任すれば当然子供は学校制度への適応力は身に付きません。親が勉強が出来ても子供がダメなケースがそれです。私はそれです。父親は放任主義でした。本人の優秀な頭脳が遺伝すると錯覚していたようです。「俺の子供だから頭がいいはずだ」と。それは過ちです。親がトレーニングしないと子供は学校制度への適応力を身に付けません。結局私は浪人してはじめてまともに勉強しました(爆)。で、大学に入ってから勉強の面白さに目覚め、一年の夏休みに一日八時間の勉強を己に課して母親に激怒されました。「遊んでこい!」と。大学入ってから勉強しても誰も褒めてくれません。注意して下さい。ちなみにその勉強、単位とは何も関係ありません。単位を取るための勉強はすばらしいのですが、本人の関心に基づく勉強は、これを趣味といいます。趣味のために一日八時間家に引きこもっていれば、確かに怒るのも理解できます。勉強と趣味は紙一重です。ご注意下さい。
花田冨平様の意見「私は勉強が出来る人が羨ましいし、得だと思いますけど。」ということに関してブルデューは「エリートと学歴資本」において次のように言っています。

一連の選別作業によって、学校制度は相続した文化資本保有者を非保有者から区別する

で、こうした分別作業によって選別された「選良」をブルデューは「法服貴族」に対する新たな貴族、「国家貴族」と呼ぶわけです。

学校が行う分類作業によって社会的な差異、決定的な序列関係が制度化される。選ばれた者は生涯○○学校出身といった帰属を刻印されることになる。選ばれた彼らは本質的な差異によって普通の人たちとは区別され、そのことによって支配する権利を与えられた一団のものなのだ。

わかりやすくいいますと、勉強が出来れば学歴が身に付いて、学歴社会なのでそれが得になる、というわけですね。で、大事なのが、それ以上ではない、ということです。
ブルデューはこうしたことの考察を通じて何が言いたいか、と言いますと、学校教育の独立と中立という幻想をあばくことでした。学校とは文化資本の再生産とイデオロギーの押し付けなわけです。過激な言葉を使うと洗脳ですね。だから学校制度そのものに意味はない、として学校を否定することもできるわけです。しかしまあそうはいっても学校制度に適応して得したいですよね。