勉強が出来るということ

今日は三つ目について検討します。
一人だけで動くことが多い、でしたよね。通信簿に「みんなと協力して動くことが出来る」とかいう項目に「がんばろう」を付けられる人のことです。私です。一人で好きなことをしている、と書かれる人のことです。私です。
何で勉強と関係があるの?と思われるかもしれません。しかし関係があります。ただし塾では関係がありません。塾は極めて原理がはっきりしております。テストの点数が良くて、人の邪魔をしなければ、文句は言われません。ところが学校という場は、全人格的な評価がなされます。人と協調する能力、前向きに取り組む姿勢、リーダーシップ、生活態度などなど。最近ではボランティア心、愛国心まで評価の対象になっています。要するに全ての人間性を学校に合わせなければなりません。私個人はそこにこそ学校のゆがみがあると思っていますが、現代の学校化社会に合わせて生きて行くには、学校制度に合わせるしかありません。学歴社会は微妙に崩壊しつつありますが、学校化社会は確実に進行しています。秩序に合わせて生きて行くことを要求されています。で、その秩序に合わせて生きて行ける人間を養成するのが学校制度の目的です。単に勉強が出来る人間を養成する場ではありません。それは近代学校制度が出現して以来の鉄則です。よく学校では勉強だけでなく、人間性も教育せよ、という主張がなされますが、学校は常に人格教育を行ってきています。そして、学校に全てをゆだねる姿勢が、学校の肥大化と学校のゆがみを作り出しています。
それはさておき、学校でいい成績を取るためには、学校の価値観に合わせなければなりません。学校の価値観、それは社会的に有用な人間を作ることです。一人の天才を養成する場ではありません。そもそも天才は教育によって育てられるものではないでしょう。天才はおのずから生まれるから天才なのです。そもそも協調性ゼロの天才は果たして役に立つでしょうか。私は自分のことは棚の上にダンクシュートで、協調性のない人間と一緒に仕事したくありません。こっちに協調性ないのに、向こうも協調性なかったら、それは一緒に仕事をしているとはいえません。ただ友達にはなれるかな。自分がいかに世の中に受け入れられないかを愚痴る。しかも二人とも協調性ないから、自分のことばっかり話している。人の話は全く聞いていないし。うーむ、結構いやだな。
ちなみにアインシュタインとか、世の天才といわれる人々の協調性のないエピソードがひきあいに出されますが、あれは協調性がないとはいいません。皆さんの身の回りにももっと変な人がいらっしゃるはずです。スーパーのレジを観察するだけで変なおばさんは数人観察できるはずです。スーパーのレジなどで自己主張するおばさんに比べれば、世の偉人たちの「変人」エピソードなど、ささいな、きわめてノーブルなエピソードにすぎません。いかなる事業も組織で動いています。協調性のない人が活躍できる場はありません。
というわけで、協調性を頑張って付けましょう>オレだ、オレorz。
注釈を付けておきます。私は自分では極めて常識的な温厚な人間と思っているのでありますが、マイペースだとか、人の顔色を読まない、とか、強調を乱すとか、変人とかいわれています。困っています。こういう人って結構IQが高かったりするのですが、私の場合、計ったら103でした。コメントには「ほぼ平均的な知能指数です。良い人間関係を築き、順調にやっていけます。」とありました。あまり「良い人間関係」を築けていないし、順調にやっていけていないのは能力がありすぎのせいか、と密かに思っていたりしたのに、とIQ97の弟は思っていたそうですが。