幼児英会話

私の義姉は2歳の息子を英会話教室に通わせていた。他人のことなので黙っていたが、やはり違和感を覚えた。外国語を学ぶ前に母語をきっちりやれよ、という気分である。
今日教材となった村上慎一「なぜ国語を学ぶのか」はその問題にすっきりした解答を出してくれたような気がした。
「言語はなぜ生まれたか」というレポートを書かせた。大学生はけげんな顔をしている。コミュニケーションのためにきまっているではないか、というわけだ。確かに言語を取り上げる際に、しばしば使われる考え方だ。言語の目的はコミュニケーションだというのは。しかし言語の第一義は意思伝達ではなく概念化にある、という意見もある。
こういうことだ。人が草原で牙を持った大きな獣に出会う。うなられてびびって逃げた。また別の日に、別の場所で、少しちがう獣に出会った。少し小さく頭の周りに毛はない。しかし同じように怖かったので逃げた。また別の日に同じような、しかし少し違う獣に出会う。これは別に敵対的な行動ではなかったが、怖そうだったので逃げた。こういう経験を繰り返してこの獣に何でもよいのだが、名前を付ける。「ライブドア」でも「SBI」でも「ダフィンジャ」でもいいのだが、まあ「ライオン」と付けたとする。この「ライオン」だか「ダフィンジャ」だかはどの程度の危険性があるとか、どうすれば安全かとかいうことを知り、対応策を練る。この時に重要なのは個々の獣を概念化して「ライブドア」なり「SBI」なり「ライオン」なりの名前を付けることが決定的に大事なのだ。名前を付けることにより個々の獣は「ライオン」という概念になり、その概念を通じて、獣個々を把握して行くのだ。
子供は概念化を通じて世界を認識して行く。概念化する時に親をはじめとした大人の影響を受ける。よくいわれるが、日本人だから○○は自然だ、という意見を目にする。冗談ではない。日本人だから、ではない。そのように教えられるからそうなるのだ。それはさておき、母語を習得するというのは、世界を理解し、概念化するために必要な手段を手にすることなのだ。
村上氏はいう。外国語の習得は母語の習得とは根本的に異なるのだ、と。外国語を学ぶのはそれこそコミュニケーションのためである、と。
そうなんですよ。概念化するための武器を持たずにいきなりコミュニケーションの道具を手にしても使えるわけない。英語を小学校に導入する前にやることいっぱいあるだろ、といいたい。