気になる日本語

みちる様のブログで「汚名挽回」という言葉が紹介されていたが、今日の井川はまさに「汚名挽回」だったよなぁ。キャプラーに打たれたのは想定の範囲外だったよ。
という訳でもないが、変な日本語。といっても私が紹介したいのは、どう考えても変なのだが、文法的には正しい、という日本語。
「私はボールを蹴られるよ」○か×か、という問題が某私立中学の国語の問題に出題されていた。答えは○。へっ?何で?と思われるだろう。「私はボールに蹴られるよ」だったらまだ分かりやすいが。これは「私はボールという野郎に蹴られる予定だ」ということである。どういうシチュエーションか、よくわからないが。「私はボールを蹴られるよ」はどういう意味か。これは「私はボールを蹴れるよ」という意味なのだ。あっ、「ら」抜き言葉、と思わないように。これも正しいのだ。ちなみに「私はこの服を着れるよ」は「ら」抜き言葉であり、文法的には正しくない。「ら」抜き言葉とそうでない言葉の境目はどこにあるのだろうか。
そもそも助動詞「れる」「られる」の違いから説明する必要がある。生徒に聞くと大体こう答える。「れる、は可能で、られる、は受け身」と。これで「ら」抜き言葉一直線。「れる」と「られる」はどちらも受け身・自発・可能・尊敬の助動詞で、機能に差はない。これを押さえる必要がある。では、何が違うのか、というと、くっつく相手が違うのだ。「れる」は五段活用・サ行変格活用の動詞の未然形に接続する。一方「られる」は上一段活用・下一段活用・カ行変格活用に付く。サ行変格活用にも付くが「せられる」という古くさい言い方だ。今ごろ「せられる」というアナクロな使い方をする人は少ないので無視してよい。
ここでもう一回「私はボールを蹴られるよ」を検討すると、「蹴る」はラ行五段活用の動詞だ。未然形の活用語尾は「ら」か「ろ」だ。「私はボールを蹴らない」となる。この「蹴ら」に「れる」が付くのである。これで「蹴られる」が完成だ。「れる」には機能面の差がないので、「蹴られる」で「蹴ることができる」(可能)「お蹴りになる」(尊敬)「あいつに蹴られる予定だ」(受け身)などの用例ができる。自発は難しいな。というより意味不明だ。
では「私はボールを蹴れるよ」はなぜよくて、「パパは裸エプロンを着れるよ」はだめなのか。これも先ほどの話と同じ。「着る」は上一段活用の動詞だ。だから「れる」をつなげることはできない。「られる」をつなげることになる。「着る」の未然形は「着」だから、それに「られる」を付ける必要があるのだ。これで「裸エプロンを着ることができる」(可能)「裸エプロンをお召しになられる」(尊敬)「裸エプロンをパパに着られてしまう」(受け身)などの用例ができる訳である(花田冨平様ブログ「PAPAは裸エプロン」協賛企画)。
ではなぜ「私はボールを蹴れる」はOKなのだろうか。これは可能動詞である。例えが「書くことができる」ということを「書ける」、「走ることができる」は「走れる」、「打つことができる」ことは「打てる」というように五段活用の動詞は下一段活用に変えて可能の意味を持たせることができる。これを可能動詞という。「蹴る」も五段活用なので可能動詞を使えるのだ。だから「蹴れる」はOKなのだ。可能動詞がある以上、五段活用の動詞に可能の助動詞「れる」を付けること自体が無意味なことである。従って「私はボールを蹴られるよ」という文は○か×かという問題がナンセンスだ。こういうナンセンスな問題は結構多い。
ちなみに助動詞「れる」「られる」の区別を覚えておくと「ら」抜き言葉は使わなくて済むので、「ら」抜き言葉を嫌う人と接する機会の多い人は覚えておいて損はないだろう。ちなみに五段活用とかがわからない、という人は、「ない」を付けてみよう。「ない」を付けて、例えば「打たない」「書かない」のように「あ」段が出てきたら五段活用、従って「キャプラー如きに打たれる」というように使う。先程も述べたように可能の意味で使うことも文法的には有りだが、普通はやらない。「着ない」「起きない」のように「い」段が出てきたら上一段活用、「着られる」「起きられる」とする。「投げない」のように「え」段が出てきたら下一段活用の動詞、従って「投げられる」。ちなみにカ行変格活用は「来る」の一語、サ行変格活用は「する」の一語である。カ行変格活用動詞「来る」に接続するのは「られる」の方。だから「来られる」。「来れる」はNG。サ行変格活用動詞「する」は「される」だが、これを可能の意味で使う人はいないだろう。「できる」という言葉があるからだ。