伝統とは

鉄ヲタシリーズはとりあえずおしまい。また気になることがあったら書くが、マスコミの報道の方向性がおかしいことをこういう過疎ブログで言っても仕方がない。もっと繁盛しているところで色々言われているので、そちらを参照して戴ければ、と。
ただ私は今日のビル・トッテン氏の発言には拍手喝采。思っていたことをずばり。あそこまで言って委員会、という感じ。漢だ。
というわけで、今日は全然関係ない話。
私は日本の伝統を守れ、とかいうのは、懐疑的だ。なぜか。それはそもそも「伝統」といっても、いつ、どこで、の伝統なのか、明らかになったことがないからだ。理由は単純明快。「伝統」を連呼する人の脳内にしかないからだ。
「伝統」を一つ覚えのように連呼するのは何も保守だけではない。昔はサヨクも叫んでいた。日本には革命の伝統があるのだ、と。人によって「伝統」が何か、は全然異なる。所詮サヨクの叫んでいた伝統とは、自分に都合の好い「伝統」なのだ。
伝統に関して面白い例がある。横綱審議委員内館牧子氏が朝青龍の所作に「伝統に反している」と注文をつけた。北の湖理事長からツッコミが入った。そもそも土俵上で懸賞を受けとること自体戦後の所作なのだそうだ。内館氏は自分に都合の好いの伝統を押し付けようとしていたことになる。「伝統だ」と押し付ける人は基本的にこの図式だ。
常に私たちは問い続けなければならない。「いつ、どこの伝統なのだ?」と。その多くは、「これが日本の伝統だ」と叫んでいる人物の子どものころの体験でしかないのだ。で、歴史学とはそのような「伝統」を相対化するための学問だ、と私は信じている。