頭の中でこしらえた伝統

「伝統」「歴史」などの言葉で自分の主義主張を正当化しようとする人々がいる。こういうのを歴史に対する冒涜というのだ。
今回はその例を一つ。日本相撲協会のことだ。女性を土俵に上げない、というのが「伝統」*1だというのであれば、それがいつからの伝統なのか、出典もはっきりさせた上で相撲協会の責任において明らかにすべきだろう。当然厳しい史料批判にさらされるだろうし、その結果相撲協会の主張する根拠が瓦解するかも知れない。しかし逆にそれで根拠自体ははっきりするかもしれない。それは論争の行方如何である。
もっともそれがいつの伝統か、はっきりしたところで、伝統=守るべきものかどうか、というものもある。どの伝統を残し、どの伝統を変えるのか、という問題がある。何が何でも伝統を守れ、というのであれば、そもそも仕切り時間の制限などおかしいはずだ。一五日制も伝統から外れている。伝統を隠れみのにすべきではない。それは相撲の歴史に対する冒涜だ。女性を土俵から排除すべきだという議論は「伝統」ではなく、現在の日本相撲協会の方針にすぎないのだ。
さらに自分に都合の好い「伝統」を脳内にこしらえる人を発見してしまった。横綱審議委員会内館牧子委員だ。氏は朝青龍の手刀について「伝統に反する」とか何とか言って北の湖理事長から反論されていた。北の湖理事長によれば、そもそも懸賞を土俵上で受けとること自体が戦後になってからのもので、別に伝統というわけではない、という。ただ所作として右手で受けとるのが好ましい、ということを言っていた。相撲協会もそれくらいな見識はあるわけだ。手刀を右手で切るのは相撲協会の好みであることを正直に表白したことは評価できる。
ありもしない「伝統」を持ち出して、自分の好みを正当化するが如き歴史に対する冒涜行為を大河の脚本を書いたことのある人が平然と行ない、それを歴史に関してはむしろ大河ドラマの脚本家よりは素人に位置する人からたしなめられる、という一幕に、私は現在、歴史が置かれている状況を思って暗然たる気持ちになった。しかしこういう例はどこでも見られる。憲法論議における「伝統」や「歴史」の議論や、教科書問題などに顕著だ。

*1:例えば高砂広報部長の「伝統を守るべきだという流れは変わっていない。」という発言等