国語だめだめ人間対策

世の中には国語がからっきしだめ、という生徒は少なからず存在する。ほかならぬ私も高校生まではそうだった。何がだめなのか。正しい答えがあるように思えなかったのだ。答えを聞いても「そうも言えるけど、俺の考えているのも何であかんのかな」とか思ったりするのだ。で、人の感性だけ正解がある、とごねたくなるのだ。
その対策だが、やはり残念ながら正解はあるのだ。しかしそれは書いた人の意見ではない。受験国語のルールに沿ったものなのだ。したがって受験国語を制するにはまず受験国語のルールを押さえる必要がある。一つだけ言っておくと、答えは基本的に本文中に書いてある、という大原則だ。受験生の感性など聞いていない。聞いているのは、正解に相当する部分を性格に本文中から見つけ出す能力だ。
学校の国語は、生徒個人の感性を涵養するのが今日日の流行だ。だから生徒の数だけ正解がある。個性を重んじて、のびのびとした教育。しかし受験はそうは言ってられない。優劣を付けなければ困るのだ。でなければ全員を合格させねばなるまい。だから受験は人を落とすためにある。正解は一つでなければ公正な入試にはならない。その点、公正よりも一人一人の個性を伸ばすことが任務の小学校とは根本的に異なるのだ。そこの違いを弁えていないと、小学校の国語はいいのに、塾の国語は得点が取れない、という事態に陥り、ひいては国語嫌いになるのだ。
次に、選ぶべき問題がある。国語が今一つ点がとれない人は物語文を攻略するべし。論説文は難しい。ちなみに国語を制圧するには論説文を制圧するのだ。論説文は差がつく。私も論説文が得意になって、国語が得点源になった。物語文に頼っている間は高得点は望むべくもない。なぜかといえば差がつきにくいのだ。最後は勘に頼らざるをえないのが物語文だ。だから満点はほとんどない。しかし論説文は満点を狙える分野だ。差がつく。得意な人は論説文で差を広げようとするだろう。苦手な人は物語文で追いすがるのが一つの戦略だ。
物語文にも統一した攻略法がある。論説文の方が攻略法は充実しているのだが、論説文は本文が読みにくい。少なくとも論説文を読める、というだけでその人は国語が得意なのだ。物語文ならば読解力が少々劣っていても内容は押さえられるだろう。あとは攻略の法則に従うのみ。物語文の攻略法は次回に解説する。