塾講師が生徒を刺殺5

どうしても分からないことが一つある。そのなぞ解きを通じてこの問題の本質に少しでも迫れるか、試みたい。
わからないこと、それはなぜ「消えてしまえば楽になる」と思ったのか。私はこれを一般の人よりも切実に謎に感じている。なぜならば、被害者の生徒はあと一ヶ月もすれば、容疑者の講師の前より消え去る運命にあったからだ。何も自分で消さなくても、向こうから勝手に消える。京阪神地区の統一入試は1月14日15日なのだ。つまり被害者の生徒はあと一ヶ月もすれば受験するのだ。受験してしまえば、もう用はない。再び顔を合わせることもないだろう。特に受験直前は意外に講師はやることがない。なぜなら、一人一人課題が異なるからで、個別指導的な色彩が強まるからだ。特に国語はやることがない。私も受験直前は社会の応援に回ることが多い。萩野容疑者は国語担当だった。年が明ければ、被害者と顔を合わせることはなかったはずだ。それすらも理解できないほどせっぱ詰まっていた。それはそうだろう。でなければ、殺人などという、相手を抹殺するだけでなく、自分も、そして自分の属する組織さえも破滅に追いやりかねない暴挙を冒すわけがない。何が彼をそこまで追い込んだのか。
教育社会学の立場から興味深い考察がなされている。容疑者が以前起こした事件にそのカギを求める。そこから立ち直ろうと彼はもがいた。しかし一人の生徒によって彼の努力は無化された。彼が権力を維持するためには彼女がいなくなるしかなかった、と。そしてその背景には教師と生徒が対等に向き合わされている現在の教育環境があるという。
この考察に関連して京進自体の特殊性一つ。それは京進もアンケート重視型の塾だった、ということだ。アンケート重視の塾では生徒は「顧客」である。それが彼を追いつめていた、というニュースの報道も当たっているのだろう。
しかし私が今考察したいのは、被害者の女子生徒と容疑者の塾講師の男との間に何があったのだろうか、という点だ。始めから悪かったのであろうか。それとも徐々に悪化していったのだろうか。もし週刊誌やワイドショーで論じられるごとく加害者が「ロリ」だったとしたら、前者だろう。そうであれば、私がここで考察するまでもない。私には「ロリ」を論じる能力はないからである。こういう特殊な問題は専門家にゆだねたい。
そこで、ここでは徐々に悪かった、というケースについて論じたい。当然今回の事件の事例の検討ではなくなる。塾という場における「熱血な若い先生」の持つ危うさについてである。
ちなみに萩野容疑者の声が大きく、身振り手振りが大きいことを熱心さと捉えたり、テンション高すぎの少し変なところがある、と書いている文は、塾講師の何たるかを一切分かっていない証拠なので、そういうことを書いている文は信用できない。声が大きいのは、塾講師の最低限度の資格である。声が小さい塾講師は生徒を抑えられず、早晩解雇される。もし生徒が静かにならずに悩んでいる講師がいれば、もう少し声を張り上げることを勧める。それだけでも結構変わる。まあ、マスコミのレベルはそういうことで。そこに萩野容疑者の異常性を求められれば、まともな講師は全て変質者だ。
それはさておき、萩野容疑者のパターンは塾講師が陥りがちな落とし穴にはまっている。「はぎてぃ」と呼ばれていたこと。板書の間違いを指摘されると「ファイアー」と叫んでいたこと。熱血で厳しく、面白い先生だったこと。全てが「うざい」教師の条件だ。何がまずいのか、と言えば、生徒との距離が近すぎる。生徒と対等に向き合いすぎている。塾自体の方針もあるのだろうが、端的に言って危険すぎる。今回みたいな特異な事件のリスクよりは、教室崩壊のリスクである。教室崩壊は何かの拍子に起こる。その表面的な原因は様々だ。しかしその根本的な原因は教室内の権力構造の崩壊である。生徒と対等に向き合おうとする姿勢は権力構造を自ら崩している行動である、と言えよう。親しみやすい、面白い先生は、その意味で危険すぎる。私もよく生徒を笑わせる。しかしそれは生徒と私との間に権力関係を構築してからだ。私も塾講師をはじめて数年間はそういうネタを出さなかった。
生徒に板書の間違いを指摘されたらどうするか。「ファイアー」と叫ぶのはいい。私も採用したいくらいだ。私は「あ、ほんまや、ありがとう」で済ませる。最悪なのはごまかすこと。
こういう間違いとか、あるいは生徒の突っ込みとか、あらゆる機会を捉えて生徒は権力関係を崩そうとしている。生徒がへ理屈を述べる時がその最たるものだ。その時に一気に権力関係を構築しなければならない。「へ理屈をこねるな」と一蹴してはいけない。これは権力関係を築くようでいて、崩壊させているに過ぎない。へ理屈にはへ理屈が正しい。へ理屈をこねる生徒に対し、その理屈を上回る理屈で以て完全に論破するのだ。これは完膚無きまでにやらないと意味はない。一人の生意気な生徒にこれをやる。すると再びそれを崩そうとする生徒はいなくなる。
熱血で厳格な指導、というのは一見正しいようでいて意外と危険な橋である。厳格なのは必要かも知れない。しかし熱血で厳格なのはどうだろう。そのノリについていける人はよい。しかしそのノリについていけない人もいる。そういう小さなほころびから教室の秩序は崩壊する。教室崩壊は全ての生徒が関わるのではない。一人でも露骨に教師に反発し、その反発を教師が抑えられない時、他の生徒も寄る辺を失うのである。こうして教室は崩壊する。だからノリについていけない不満分子を生み出しかねない熱血授業はある意味危険である。
当然成績を上げてくれる教師であることは最低条件だ。逆に言えば大多数の生徒の成績を確実に上げれば、不満は吸収されてしまう。確実に成績を上げるだけの力量を持つ事が最低条件だろう。
最後に私が以前勤務していた塾でマニュアルに書いてあったことを紹介しておこう。「生徒は顧客ではない」「顧客は保護者である」「生徒と教師という一線を引くこと。特に女性講師は男子との関係に注意」最後の一文は注釈が必要だろう。生徒と講師の恋愛を心配しているのではない。女子生徒からの目を意識しろ、と言っているのだ。女子生徒は難しいところが多い。権力関係を維持するように意識することが講師にとって一番必要なことだ。そこが崩れると、様々な点で厳しいことになる。結局保護者をも失望させ、ひいては考課にも響くのだ。
まだすっきりしない点がある。被害者の女子生徒と加害者の男の塾講師との関係である。今の情報では論じるだけの材料がない。もう少し材料を集めて考えて見たい。