塾講師が生徒を刺殺6

もうこの問題も一段落したようだ。
今日のニュースジャパンで面白い特集をやっていた。「日本の自画像」というコーナーで、少年の凶悪犯罪のネタだ。ネタ自体は「反社会学講座」と同じネタで、最近十年間に少年事件が凶悪化している、というグラフは、正しくない、という主張だ。過去50年単位で比べると、近年の凶悪事件の件数はむしろ大幅に減少している。なのに多くの「大人」たちは「少年は凶悪化している、昔はそんな凶悪な若者はいなかった」と感じている、というのだ。基本的に「昔は○○なのに今は××だ」という言説は信用してはいけない。それは自分に都合よく脚色された過去でしかない、というのは人文科学の基本中の基本であって、それを知らない人が多くて困るのだが、今日のニュースジャパンの特集はそういう傾向に警鐘を鳴らしていた。フジテレビにしてはまともな議論だ。というのは冗談で、ニュースジャパンは一部の解説委員とかつていたキャスターをのぞいて比較的いい議論を展開していると思う。
パオロ・マッツァリーノ氏の議論をパクっただけでは申し訳ない、と思ったのかどうかは知らないが、さらに「日本の自画像」では「ユニバーサル曲線」なる議論を紹介していた。「ユニバーサル曲線」とは世界共通のグラフの傾向性であり、殺人犯の年齢が世界共通なのだそうだ。それは若年層に集中している、という。それに対し、日本は若年層の殺人犯率が低い、という。その背景として挙げられていたのが、終身雇用による自分の未来の見通しの良さである、という。
これを聞いて二つのことを思った。一つは、これからの日本の治安は急速に悪化するだろうな、ということ。今の日本は終身雇用を否定し、成果主義を強めている。その中で若年層の未来は急速に不透明化している。「改革」の名において日本社会は国際競争力をつけようとしている、あるいはアメリカの属国化している、という様々な議論が存在するが、少なくとも日本の若年層の未来は不透明化し、若年層の不満が暴力につながるだろう、という予測は容易につく。
もう一つはこれを件の事件の理解にも共通している、ということだ。前のエントリーの「通りすがり」氏の議論そのままなのだが、萩野裕容疑者にとって、未来は極めて不透明だった、ということが主要な原因なのだ、ということだ。
停学処分、それも強盗致傷という罪状で前科がつき、停学処分を課された彼にとって、未来は限られていた。大学院への進学は無理だろう。軽い処分でもかなり難しくなる。まして強盗致傷の前科持ちでは大学側も二の足を踏むだろう。もちろん退学処分ではなく、停学処分にした以上、もし萩野容疑者が大学院への進学を希望すれば、可能性は残さなければならないだろうし、実際はどうだったのか、知らないが、萩野容疑者自身に大学院への進学を選ぶ選択肢は残されていなかったのではないだろうか。
彼に残されていたのは京進での専任の道である。塾でバイトしている人は知っているだろうが、実は専任への道は意外に険しい。少しの失敗でも響くのだ。被害者とのトラブルが自分の未来を閉ざした、と感じてしまった時、自分自身の破滅とともに自分を破滅に追い込んだ、と容疑者自身が思い込んでしまった被害者も道連れにしようと考えたのではないだろうか。だから彼には事件後の想像も必要なかったし、まして理性を働かせる余地はなかったのだ。彼は破滅していたのだ。
ここで一つ、注釈を加えておきたい。被害者には全く落度はない、ということだ。serohan氏のブログを拝読していると「小学校6年女児を殺害した、塾アルバイト講師の大学生は、いじめられっ子だったらしいそこに原因を求めようとしていたりそれらのエピソードを、耽美的な物語として語っているそんなブログが多くって」と書かれてあったが、serohann氏の主張のように、この件に関して被害者が責められる言われは一つもない、ということだ。ある教育社会学者のブログでは「これは改めていっておく必要があるが、報道されている事実だけを見れば(それ以外に見られるものは何もない)、被害者側には何の落ち度もない。反りの合わない講師に対して、否定的な反応をする。それに対して無理気味な指導をされ、傷つき、さらに講師への印象を悪くする。そうして講師との関係が決定的に悪化すれば、授業に出るのを止める。所詮サービス産業である塾における受益者の立場からして、正当というしかない対応である。あるいはこうした対応が許されにくい学校においては、全く別の悲劇が生じることもあるだろう。事態を悪化させたのは、おそらく被害者の女の子が拒否した講師の振るまいが、講師自身にとっては生命線そのものであったということ(過剰にも思えるがんばりは、この講師の置かれた状況からすれば、無理をしてでもやらざるを得ないことであった。そしてまたもともとの資質からしてやっていたことではなく、無理気味にやっていることを否定されるのは、その否定の強度はさらに強いものになる)に尽きるのだが、しかしそんなことは生徒である被害者にとっては何の関わりもないことである。」と書かれているが、まったくその通りであって、被害者には何の責任もないし、また問われるべきでもない。