「理性の崩壊状況」と「想像力の欠如」

塾講師が生徒を刺殺問題でみちる氏より「理性の崩壊状況」に関する考察の必要性という提言がなされ、それに対し冨平氏より「想像力の欠如」と言う方が適切では、という提言があった。私は「知性の低下」というタームを立てた。4月27日に「反知性主義」について考察をしたが、その時に言葉足らずであった点も含めて考えたい。
今回この問題を考察する時に参考にしたのが喜八ログ: 反知性主義の跋扈の記事である。その中の堀武昭氏の「反知性主義が世界を跋扈(ばっこ)しはじめている。世界の指導者は知性による政治を真剣に考えるべきだ」という言葉がキーになると考えた。「反知性主義」と言うと誤解を招きそうだが、「反知性主義」とは無知であることではない。俗な言葉を使えば「バカ」なのではない。「知性」に反対するのである。ブッシュ政権は典型的な反知性主義である。なんとなればブッシュ政権の支持基盤であるキリスト教保守派は、進化論否定というかたちで近代知の一つである自然科学の成果を、自らの宗教的信条によって否定しようと考えているからである。近代知そのものが正しくない、という主張は当然有り得べき議論であり、その意味で近代知そのものに反対する「反知性主義」は「無知蒙昧」な議論ではなく、一つの主張を持った議論なのである。
日本ではどうだ、と言われるかも知れない。日本で進化論を真っ向から否定する人はいないではないか、と。人文科学の分野に目を向ければ「反知性主義」は「歴史修正主義」の立場で姿を表す。具体的な運動で言えば「新しい歴史教科書」問題である。あるいはその出発点になった「従軍慰安婦」問題である。なぜ吉見義明氏らの「従軍慰安婦」を告発する視点は大方の賛同を得られなかったのか。それは従軍慰安婦の存在を証明する実証的手続きに瑕疵があったから、ではない。手短に言えば、言語論的転回以後、「客観的事実」を措定する思考が破綻しているのである。従軍慰安婦問題や「新しい歴史教科書」のベースになった議論は、それなりの思想的ベースが存在するのである。ここを無視してこの議論はできない。続きは後ほど。