教材から

グローバリズムに関する論説文。まだグローバリズムに対する楽観論も色濃く残る教材だが、中に気になる一節が。グローバリズムが進展した時の懸念事項として「自分の国の伝統や文化に対する関心が薄れる」とあった。これを見た時、昨年の私は「こういうナショナリズムも困ったものだな」とのんきに構えていた。現在でも脱構築の影響の強い私にとって、国家などというものは克服されるべきものであったし、伝統は脱構築されるべきものと考えていた。
と、こう書くと「このサヨク」と罵声をあびそうだが、そうではない。私のかかる思考は実は現在のネット右翼と問題意識を共有していたのだ。否、私が依拠してきた脱構築の議論は今日のネットにおける「保守」的な議論と軌を一つにしていたのだ。今日のネット上における自称「保守」の言論を見ていると、その多くは日本の「伝統」的な部分を冷笑し、破壊しようとしている。綿貫民輔代議士を支える心性は私の最も忌み嫌うものであった。まさに小天皇制、天皇制を支える最低の心性と考えてきたのである。しかし一連の小泉改革を見ている中で、私が躍起になって否定しようとしてきたことが、実は現在の「保守」的言論を支えていることに気付かされた。私は自分の研究方向を転換することを迫られている、という感じがしている。ある意味転向なのだろう。ただあまり器用なタイプでもないので、大きな転換はできないだろう。今までやって来たように、近代において作られた虚像から歴史の実像を解放する、という手法に頼らざるを得ない。
さらに言えば私は「左」なのか。多分「左」であり続けようとするだろう。しかしその「左」とは何なのか。示唆的な言葉が教育社会学研究者の次の言葉だ。

今、改めて己の思想的立場を考えてみる。「保守主義」と「ラディカリズム」の対抗軸に自身を位置づけるならば、私は明確に「保守主義」を取ろう。先人たちが紡いできた社会的価値や文化を土足で踏みにじるような輩とは断固立場を違えよう。

私は今、「保守主義」に舵を切るべきなのか。というよりも今、ネットで台頭している言説を「保守」で括ること自体に問題があるのだろう。その教育社会学研究者は言う。

「左翼」思想の退潮と同じく、この「ラディカリズム」も、明確な思想的立場としての存在感は失われた。しかしいまネットにおける言説にはこの「ラディカリズム」の陰が浮かび上がる。
伝統・既存の社会的価値を徹底的に疑い、それを攻撃し続ける態度。一つの価値規範のみを追求し、それで社会的な多様性を乗り越えられると考える純粋さ。私の世界観で世界がすべて解釈可能であると考える傲慢さ。ラディカリズムは典型的な「青年期」思想の形を取る。言ってしまえば、かつての「左翼運動」とはこうした青年期思想の正当化に左翼理論が使われたものなのだ。
今その場所に「ネットウヨ」の言説が収まっているのだ。

女系天皇問題で「ネットウヨ」の多くが一旦は女系天皇反対論をぶち上げながらも、女系天皇を推進する小泉政権の批判には向かわずに、むしろ「選挙の時に自民党女系天皇について何も言っていない」などと全く道理に通らない小泉擁護を繰り返していた。そして靖国問題で中・韓との関係が「悪化」すると、多くの「ネットウヨ」系のブログは靖国問題を論じ、女系天皇問題を引っ込めてしまった。彼等にとって天皇制などどうでもいいのだ。いかに嫌中、嫌韓を煽れるか、それしか頭にないのだ。「保守」ではもはやなかった。
私はそのような「ネットウヨ」を批判するつもりはない。それはそれで一つの立場だ。私如きに批判される筋合いはない。批判されるべきは、かかる図式を今まで理解できなかった私のオツムの弱さなのだ。
今、とかく批判の多い「世に倦む日々」の管理者テサロニケ氏だが、少なくとも「ネットウヨ」の論理を解きほぐした点では、私にとっては得るところが多かった。いや、何人かアカデミズムの研究者でそういう人を知っている。
お断り。「脱構築」という概念、まだ実はよくわからない。自分なりの理解で勝手なことを言っている可能性が高いが、スルーしておいて下さい。