「いい」先生

塾もまもなく新年度への動きが始まる。中学受験は2月から新年度、高校受験は3月から新年度、というのが標準だろう。3月で辞める先生も多い。大学を卒業して堅気の職に就くからだ。やめた先生の補充がそろそろ始まる。私の塾はみんな研究者で食えない落ちこぼれなので、どこか大学の専任の口が無い限り、基本的に人事異動はない。一昨年は国立国会図書館に、昨年は慶応大学に人事異動(?)があったので、新しい先生の補充があったが、今年はやめる先生はいない。
で、新しく塾の講師になる人に「いい」先生とは、ということを書いておこうと思う。
まず現在の教室の状況を押さえるべきだ。生徒は教師と対等だと思っている。それどころかお客さん気取りだ。某掲示板でも「我々は顧客だ」という学生の発言が臆面もなく出ている。反知性主義、似非知性主義も同根なのだが、それはまあ、どうでもいいだろう。新しく教師になる人に一つ知って欲しいのは、今や教師に権威は認められていない、ということだ。
ところが、塾でも個別指導ならばともかく、集団指導という形になると、一人一人が主人公、というような空間では、授業は成り立たない。とすれば、必然的に教師は専制的にならざるを得ない。教師が主人公であり、生徒一人一人は教師の言うことに従わなければ、教室そのものが崩壊する。授業崩壊はこうして起こるのだ。
まず、「一人一人が主人公」などという甘ったれた考えを持つ生徒を押さえる必要がある。私語は以ての外。少しの私語でも押さえておこう。最初に「この先生は甘いわ」と思われたら、その後の押さえには最初の数十倍の努力が必要だ。生徒にうざがられるのを恐れて私語を許容したらどうなるか。私語をしている生徒は当然成績が伸びない。私語をするような、生活の最低限のきほんすら出来ていない生徒はどうするか、を知っておく必要がある。彼等の多くは教師の責任にするのである。成績が伸び悩むことを親に咎められると「先生が私語を注意しないからうるさくて集中できない」と自分のことは棚上げして言い訳をする。親は塾にクレームを入れるのだ。たいていは「てめえの子供だろ!」と言いたくなる。だからきっちりと注意をする必要がある。注意さえしていれば、反論が可能だからだ。「お宅のお子さんが一番うるさくて、注意しても聞きません」と。注意を怠っていれば、何も言えない。
自己主張が多い子供も要注意。自分の知っていることをひけらかしたいのだ。気持ちはわかる。私も小学校のころ、そういうろくでもないガキだったから。私は現在でも下らないことに関する知識は豊富だ。必要な知識は少ないが。だから生徒がトリビア的なことを言い出したら、こちらでそのネタばらしをしておく。向こうは「先生よりぼくは物知りだ」と言いたいのだ。だからその野望はたたきつぶす必要がある。へ理屈も同様だ。へ理屈を述べる生徒は必ずいる。そういう生徒に「へ理屈をいうな」と頭ごなしにしかりつける教師もいるが、逆効果だ。生徒は「この教師、アホやから僕の理論に反論できないのでキレたな」と思うだけだ。どうするか。へ理屈にはへ理屈で対抗。生徒を完全にへ理屈で論破する。所詮勉強をしていない子供だ。大学に進学するだけの学力があれば、相当程度論理構成力は鍛えられているはずだ。少しくらい賢い中学生でも論破できなければ、大学でまともな勉強ができるとも思えない。
そのためには勉強も必要だ。たとえば社会の教師であれば、三権分立の模式図や基本的人権の分類、総選挙から特別国会での首班指名の流れ、あるいは日本の主な山地・山脈、農産品の県別生産高、鎌倉幕府の組織図や15年戦争の年表などを教科書見ないで書けるか、ということが問題だ。国語であれば活用とか、そういうもの。教科書見ながらおろおろ書いていては生徒は軽く見る。実際にはどうでもいい能力なのだが、生徒は社会性がないので、そういうのを「すごい」と勘違いし、それが出来ないと「ああ、だめ教師だ」と勘違いするのだ。だから授業直前でも一生懸命それを覚える必要がある。もちろん授業終わると同時に忘れていいのだが、数年やっていると体が覚えてしまう。
こうやって教室における教師の権威を確保した上で初めて、生徒を笑わせたり、生徒の「自主的」な意見を表明させたり、ということが成り立つのだ。教師の権威が無い状況で「面白い」授業をやると、教室崩壊がまっている。
ちなみに萩野裕容疑者だが、当初被害者とも仲が良かったようだ。それがこじれたことに問題を求める見解が多いが、私はそうは思わない。そもそも生徒から「兄貴」のように慕われるところに問題は胚胎しているのだ。だからこじれ方も人間的なこじれ方をし、それが修復不能な状態に陥るのだ。もちろん被害者には何の責任もない。あくまでも教師と、それを容認した塾の体制の問題だ。生徒と友達になってはいけない。その大原則を守る必要があったのだ。