卒論審査

今年は卒論審査がない。過去9年で二回目。今年は私と専門が重なるM教授のゼミが減少したので、余裕があるのだろう。私は私の指導教授だったT教授とは微妙に専門がずれているので、T教授とコンビで試問を行なうのは、外部の人に出すのが恥ずかしい論文だけだ。だからT教授とコンビで試問する論文はどれもひどいものだ。しかしT教授の方針で全て単位を出す。卒論で落ちる人はほとんどいない。ちなみにT教授は試問中は厳しい。学生が退室した後「Bでいい?」と聞いてくる。「はぁ?」と思うがもちろん逆らわない。
私が「はぁ?」と思うのは、私の性格が歪んでいるからではない。多分。M教授は試問中はやさしい。一生懸命フォローしている。T教授とは正反対。しかし試問がおわると「Cでいいですかね」と聞いてくる。「はぁ?」だ。もちろんおくびにも出さない。どう考えても不公平だ。T教授と審査した論文の方が出来が低い。しかしM教授の方が評価は低い。しかしそんなものだ。一見優しい先生というのは要注意、というのが常識だ。一見優しいのは、学生に対する期待の低さを表している。学生に対し真剣に向き合う教授は学生に対する要求も厳しいし、指導姿勢も厳しくなる。来年度のゼミ選びの参考になりましたでしょうか。

続き。
今、「卒論」というキーワードで良いエントリ2005-12-27を見つけた。自分のためにコピペしておこう。

主語に対応する述語がなかったり、述語に対応する主語がなかったり、主語と述語がねじれていたりするのは珍しくもない。文が続いて並んでいるだけで、文章として組み立てられていないのが、やはり最も大きな問題。喩えて言えば、頭・胴体・手・足などのパーツがばらばらに並べられているだけで、体としての有機的な連関をなしていないのですよ。それじゃ動きだしようもなかろうが。
確かに、卒論なんて、大学卒業してしまえば、(研究者でも目指さない限りは)二度と書くもんじゃござんせん。仕事に、生活に、何の役に立つものか、大学のなかだけでの自己満足、というご意見もおありでしょう。
しかしだな。論文というのは、見も知らぬ他者に自分(の考えていること)を伝えるためのエッセンスが凝縮されたものであるのだ。それは少なくとも現代においては、社会を成り立たせるために決定的に重要なものであり、大学で学ばなくてはならないものはそれに尽きると言ってもよい。ちゃんとした文章になっていないということは、他者に向けて書く、伝えるという意識が決定的に希薄であることを表している。だから、独り言になる。独り言は、自分の思うがままを、だだ漏れに書き連ねていけばよいだけであるから、それゆえに、「文章」になりえぬのだ。
学者とか教授とか呼ばれる人の書いた「論文」(とされるもの)にも、独り言でしかないものは数多くある。私はそんなものを君たちに書いてほしいわけではない。論文を書くのは、ほとんどの学生さんにとって、これが初めてであろうから、添削の必要のない原稿が出てくるとは私も期待していない。論文を書けるだけの文章力を養うトレーニングを十分になしえなかった大学のカリキュラムについても(私の授業を含め)その不備を反省するところは多々ある。しかし、最終的には、自分の文章を差し向けるはずの他者と対峙する姿勢があるかないか、そこのところが大きいのだ。それはシステマティックに教え込もうと思って、教えられるものではない。しかし、教えられずとも、学ぶことはできるものなのだ。そうした学ぶための場――教えられる場ではなく――であることに、大学本来の存在意義はある。
論文や大学のなかだけでなく、世の中には独り言が数多く出回っている。放っておけば、そうした独り言はこれからもますます増えそうな勢いだ。他者を目の前にしながらもそれを見ない独り言が、私はあまり好きではない。だから、独り言ではないことばの作法を身につけた人が少しでも増えてほしい。まあ私だって、そんな偉そうなことを言えた義理ではないがね。日々研鑽あるのみ、である。

いいですねえ。私も座右において研鑽しなければ、という気にさせられました。