阪神大震災

私は京都在住なので特段の被害はなかった。その前日は私の下宿の引っ越しで、家族総出で引っ越し作業を終え、実家に帰っている時に震災に遭遇した。思いきり揺れたので跳ね起きた。揺れはすぐに収まる、と思ったので、しばらく様子見。自分の上に者が落ちてくるよゆな様子はなさそうだ。揺れが収まってからラジオを付けた。状況を把握する必要がある。しかし何も言い出さない。しばらく時間がかかる、と判断し、また寝た。
8時頃起き出してテレビをつけると、大変なことになっているのがわかった。あとは一日中テレビ。京都にいる知り合いに電話をしようとすると、つながらない。安否が気になったので京都に出て見ることにする。もちろん交通機関はマヒしているので、自転車で京都市に向かう。しかし途中で連絡がついて京都市内はたいした事がないことがわかって、実家に引き返すことにした。
父親は徒歩15分の勤務先に向かうべきなのに向かわない。曰く、迎えの車が来ない、だと。歩け、とせっつく。しぶしぶ出て行く。そこの事業所の責任者なのにこういう時に出て行かなくてどうするのか。しかもすぐに帰ってきた。曰く、誰もいない。そらそうだ。勤務先から徒歩圏内に暮らしているのは父だけなのだから。当時その会社の副社長という重責にあるのだから、会長社長が身動きとれない時に陣頭指揮をするべきだろう、と家族みんなで説得したが、結局早退。
単なる我がままのように思えるが、実は父には父なりの事情があったのだ。父は西宮の出身で、当時西宮市内に父の兄(つまり私から見れば叔父)一家が居住していたのだ。だからテレビにはりついていつまでも見ている。深夜、犠牲者名簿に叔母の名前が出る。
翌日父親は一人西宮市に向かった。叔父一家の安否はわからないまま。200万円を届けに行ったのだ。結局夜に避難所で会えたそうで、200万円も無事に渡せたようだ。その翌日は父と母で救援物資を届けに行く。私たち兄弟は免許を持っていないので、おいてけぼり。必要なのは人でではなく、物資。役立たずの二人を連れていくよりはそのスペースに物資を積んだ方が役に立つ。結局私は被災地に入ることはなかった。兄一家は割り合い早くに家を借りれたようで、新しい生活もはじまった。
私が西宮に行ったのは震災一年後。西宮市の塾に仕事に行くことになったからだ。当時は一年も経っていたのに、一階部分がつぶれたマンションがいつまでも残っていたり、塾の周辺も空き地が目立っていた。塾自体は無事だったが、あちらこちらにひびが入っていた。今でもひびは残っている。空き地もあらかた埋まり、塾の隣の空き地にも数年前に家が建った。最近の塾生も震災の記憶のない生徒が増えてきた。それどころか震災後に生まれた塾生も多くなっている。