センター試験

リスニング、案の定トラブルが。まあ少ない、と言えば少ないから、まあ成功と言えば成功なのだろう。
しかし疑問に思うのが「必要なのか?」ということにつきる。リスニングが必要か必要でないかは大学で任せればよい話だ。つまり二次試験でやれ、と思う。二次試験ならばもう少し目が行き届くし、国費を投入して膨大な数の機械を導入して、試験監督者に多大な負担をかけずに済むのだ。
俗耳には入りやすい意見として、ペーパーテストに実用的な意味がない、というのがある。それを言い出せば、全ての学校での勉強に意味がなくなる。英語を話せるようになりたいのであれば、大学なんぞより英会話教室の方が効果的だろう。つまり大学という場は、実用的な技能を身に付ける場ではないのだ。そこを履き違えてはいけない。実用性を求めるのであれば、専門学校の方が向いているだろう。大学に実用性を求める、というのは、大学を専門学校化しようとする方向性だ。そうなると、はっきり言って専門学校の方がいいだろう。ノウハウが蓄積されている。教育においてはノウハウの蓄積が重要なのだ。
何のために勉強するのだろう。端的に言うと、トレーニングだ。それくらいのトレーニングを積んで、それ相応の能力をつけてもらわないと、大学での「競技」についていけませんよ、というものだ。スポーツに置き換えると、トレーニングがいやだ、競技だけやりたい、と言っているのと同じことだ。基礎体力が無いと、まともな競技はできないこと位はわかるだろう。それが勉強になると、なぜかトレーニング嫌いが格好いいように思えるから不思議だ。
大学に何の意味があるのか、と思った人は大学なんぞ行かなければいいだけの話だ。中卒でも高卒でも素晴らしい人はいくらでもいる。逆に大学を出ていてもバカはいくらでもいる。それだけの話だ。問題なのは、学位が一つの資格と化しているところなのだろう。
なぜ大学に行くのか。それは各人考える他はないようだ。
ちなみに大学での勉強をもっと厳しくせよ、という意見がある。大学関係者として思うのは、無謀だ、ということにつきる。はっきり言って、大学のテストでまともな文章が書けるのは、一割に満たない。私はそういうのにはAをつけている。B・Cははっきり言って落第だ。一般教養科目がBとCだけしかなかった私が言うのだから間違いはない。私は自分で結構バカだと思う。これを厳しくすれば、ほとんどの学生が落第。なぜか。まとまった文章を書くトレーニングがなされていないからだ。そうなる原因は高校までのカリキュラムにある。私は小学校の時にアメリカにいたが、留年があった。一定のレベルに達していなければ進級できないのだ。つまり高校を卒業して大学受験をする人は、かなりのレベルに達しているのだ。日本では少しくらい頭悪くても、私みたいに大学受験をすることはできる。そして予備校でトレーニングを積めば、そこそこの大学に入れる。私の同級生で、かなり成績が悪く、偏差値の低い本命大学も落ちて、これは浪人だ、と覚悟したヤツがいたが、驚くことに記念受験早稲田大学だけ通った、という事例がある。まあ、早稲田に行ってから、かなり苦労したようだが。
大学教育を根本的に改革したいのであれば、小学校から変える必要がある。大学だけ小手先で改革しても無駄だ。しかし私は自分が小学校から高校まで成績が悪かったので、現在一部の人が提唱している、小学校からの選別教育には否定的だ。格差を広げるだけになるだろう。といいながら私的な選別教育産業(つまり中学受験産業)に携わっているので、何ともいえないが。