渡辺恒雄氏

ニュース23の筑紫哲也氏が読売新聞会長の渡辺恒雄氏にインタビューをしていた。靖国問題公式参拝を批判していた。これでしかし私は嫌中・嫌韓世論が転換するとは思えないわけだ。渡辺氏は古すぎる。「浴ボケした老人」と片づけられるのが落ちだろう。奥田硯氏も参拝を批判していたが、トヨタ売国奴呼ばわりされただけだ。今の「ネットウヨ」世論は靖国参拝に反対すると「売国奴」「中韓の手先」で終わり。どう見ても左翼に見えない渡辺恒雄氏も「昔日共だった」で終わり。現に西部邁氏は「昔全学連」で終わりだから。「ネットウヨ」は西尾幹二氏にも批判の矢を放っている。曰く、西尾氏は中韓の脅威よりも米国の脅威を誇張しすぎる。つまり嫌中・嫌韓に立たなければ、批判の対象なのだ。
どこで読んだのか忘れたが、いわゆる「ネットウヨ」の自己分析が載せられていた。いわく「私たち若者」はアンチ反日を意識しすぎる余り、米国の策略を軽視してしまう、と。それなりに鋭い自己言及だろう。しかし私自身はそう単純なものでもない、と考えている。もう少し背景があって、その背景は何だろう、と。「ネットウヨ」自体の言説は、どこかで言われていたデュルケームのいう「アノミー」状況に陥っていて、その中で「生」を求めてあがきながら言説を生産している、という指摘があった。私はデュルケームなんてどこかで聞いた事があるなあ、位の認識しかなく、「アノミー」なんて予備校時代に聞いた事があるかも知れないな、位なので、この見解に対して何らかの意見表明をする能力はない。「アノミー」状況に陥いり、その中で「生」を求めてあがきながら言説を生産している、という状況は、かつての全共闘にも通じるものがあり、彼等なりの閉塞状況の中での懸命の自己主張である、というのはわかるのだが、歴史学研究者としての私の関心は、なぜその中で「反中・嫌韓」が「選ばれた」のか、ということにある。「行き所のないエネルギーがちょっとしたきっかけで「他者」に向けて収斂する、というのは今までの歴史においてさんざん繰り返されてきたことだ。その「他者」として、いわゆる「権力者」が取り上げられるか、己よりさらに弱い立場のものに向かうか、はたまた「外国」に向かうか、それはこのエネルギーからすれば外的な要因にすぎない。」というのもその通りで、しかし実証史学の立場に立つ私にとっては「外的な要因」にこそ関心があるのだ。
西尾幹二氏を取り上げて見たのも、安倍晋三氏をめぐるネット世論を取り上げたのも、女系天皇論について言及したのも、「ネットウヨ」言説の根底をさぐりたい、という思いからだ。いまのところ「反中・嫌韓」世論がその根底を為しているのではないか、という考えを持っている。女系天皇制をめぐる議論の消長を見ていると、そういう感じがするのだ。西尾氏批判とその根底である小泉支持も所詮靖国に代表される対外硬(アジア限定)が支持されているにすぎないのではないのだろうか。その裏返しがグローバリズムへの肯定的な反応である。アメリカに対する多大な支持が「ネットウヨ」のもう一つの側面である。彼等の一見「保守的」で「国粋主義的」な表現に惑わされては、本質を見誤ることになるだろう。