くろやぎさんからお手紙着いた。

ネットウヨ」のいわゆる反中・嫌韓意識について。再々引用している教育社会学研究者の言及(以下引用はすべてそこから)とそれに対する考察。

一方、今、中国や韓国が目の敵にされていること自体は取り立てて珍しいものではない。隣国をライバル視すること自体はありふれたことであって、ましてや今中国、韓国とも「アジア一」の「経済大国」を自認する日本の前に強烈に立ちはだかっている。そうした対抗心が、ある閉塞感を持った社会においては、競争相手への否定的感情を呼び覚ますことは当然あり得べきことだろう。
だから「勝ち組」であった堀江氏がアジア関係において「良識」的であったというのも当然のことだ。ライバルの存在を事業のチャンスと捉えられるだけの余裕があるから「勝ち組」なのだ。中国や韓国の存在に脅威を感じ、また恨みを抱くというのはそれだけ今の社会に閉塞感を感じているということの証である。
今の反中・嫌韓感情とはこのような迫り来る、そして場合によっては「私」(の国)を追い落とす可能性を持っている(と妄想する-そしてその妄想自体は何ら「今」という時代に特有のものではない)隣国に対するある種平凡な反応なのである。その感情が言葉として垂れ流され、さらに感情が増幅されるという事態こそが問題なのであって、それはそうした感情の垂れ流し、増幅に釘を刺すべき理念的言説がその価値を失っていることによって歯止めがきかなくなってきているということを示しているのだ。逆に理念的言説の存在は、その言説への反感から、自らの実感により近い中国や韓国への否定的感情を語ることの方がタブーを打破する、革新的な行為だと捉えさせ、一層の「本音」言説を垂れ流させるという効果をもたらすことになる。言説的構築物への否定が、素朴ナショナリズムという感情を言説に編成するのだ。

確かにいくつかのブログを見ていると、閉塞感を感じていることはうかがえる。社会の下流化とも密接な関係があるのだろう。私が見た「ネットウヨ」のうち、彼等の社会的地位がわかるのが結構ある。実際ブログで結構年齢層や仕事をばらしているブログも多いし、政治的な話だけではなく、むしろ日ごろの趣味や日誌的なブログの場合は、その人の人物像が浮かぶことが多い。そしてそれを見る限り、いわゆる「下流」的な人はあまりいない、ということも一つの特徴になっているのだ。もちろん匿名掲示板で読むに耐えない罵詈雑言を投げつける多くの「名無し」にはニートやフリーターなどの「下流社会」の住人がいるだろうし、私自身フリーターという「下流社会」の住人なのだが、私が拝読していた「ネットウヨ」たちのブログはむしろそういう「下流」のイメージとは異なる。これは私が自覚的に「ネットウヨ」のブログを蒐集していたわけではなく、自分の趣味に関連したブログを拝読する過程で、行き当たったブログであることが主たる原因だろう。5名のブログまたは掲示板の管理者の人物像が明らかになっている。奇妙なことに全て年齢層は30代。職業は大学助教授、システムエンジニア、工業関係のエンジニア、IT企業社員、農業関係の会社経営、と私とは比べ物にならないしっかりした身元の人々だ。彼等がどういう閉塞感を感じる、というのか。しかし実際には閉塞感を感じているのだ。
大学助教授の場合。彼がどんな閉塞感を感じるのか。その人は言語学研究者であり、現在の仕事は独立行政法人大学の留学生センター勤務。そこに解答のカギがある。大学改革の中で未来が不透明なのだ。「改革」の掛け声の中で大学の置かれた環境は厳しさを増している。勝ち組と負け組がしっかり出ている。COEはその象徴だ。私のバイト先もCOEに当たったが、その代償というわけではあるまいが、組織改革が大掛かりに行なわれている。常勤講師が廃止され、嘱託講師に一本化されている。わかりやすく言えば、契約社員を切ってパートに契約を変更する、ということだ。そのパートも3年間で辞めなければならない、という契約に変更されつつある、ということだ。文部科学省の意向が働いているようで、日本史はそれに抵抗しているようだが、どうなることか。私のバイトも不透明さを増してきた。大学の専任、つまり正社員もいつ組織替えがあるかわからない。さらに終身雇用も終わりを告げた。大学教師はいつクビを切られるかわからない状況に置かれているのだ。文系ならばなおさらだ。文学部など一番必要ないだろう。留学生に日本語・日本事情を教えるポストは意外と空いていたりする。私も昔は留学生科目を数年間担当してきたし、今でも九州で留学生を教えるバイトをしている。意外とポストは空いているのだ。逆に言えば別に言語学研究者でなくても、日本語・日本事情は教えられる。意外と競争にさらされるポストでもある。特にあぶれた国文・国史の研究者が日本語・日本事情科目に進出している段階では、競争は意外と激しい。私の周囲でも最近目に付くのが留学生センターへの就職だ。というよりも今はそれしかない、というのが現状だ。先細りの人文系教育機関の中の数少ない有望株をめぐって熾烈な競争にさらされる、というのが、人文科学研究者の置かれている現状なのだ。その中で閉塞感を感じる留学生担当の教員がブログ上で反中・嫌韓感情を言葉として「垂れ流して」いる。
他の人々も多かれ少なかれそういう閉塞感を感じているのだろう。そしてその閉塞感を反中・嫌韓感情によって打破されると考えているのだろう。さらに私が見ていたブログの管理者はいずれも「知識」のある人々である。それは「理念的言説の存在は、その言説への反感から、自らの実感により近い中国や韓国への否定的感情を語ることの方がタブーを打破する、革新的な行為だと捉えさせ、一層の「本音」言説を垂れ流させるという効果をもたらす」という指摘で解釈できるだろう。決して「反知性的」な思想ではないのだ。自身は「知性的」に議論しているのである。

ネットウヨが敵対しているものは端的に言って「言説的構築物」である。理念・理想そういうものに込められた価値をかれらはうさんくさいものとして否定する。人権・平等、それらは偽善的なものとしてみられる。こうした言説的構築物こそがタブーを作り出す抑圧的なものだと捉えられているのだ。

という指摘を私なりにうけとめるとすれば、以上のようになる。