私は待ち組?

「勝ち組」と「負け組」の二極化が進んでいる、という議論に対抗すべく、小泉総理や猪口邦子大臣は「待ち組」という言葉を使いはじめた。ニートやフリーターなど「挑戦しないで様子をうかがう人」のことらしい。私なぞはその意味では「待ち組」なのだろう。猪口大臣は「『負け組』は立派だ。その人たちは戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と述べたそうだ。
昨日の朝日新聞の調査結果で、二十代は競争社会に順応とある。格差社会の存在を肯定するのが今日の二十代の趨勢のようだ。それはネット社会における言論を見ていても感じる。格差社会の要因について「個人の能力や努力」に求める見方が、格差拡大を問題視しない層では72%を占めるのも特徴だ。
受験産業に身を置くものとしての感慨は少し違う。たとえば東大に行こうと思う。小学生のころから進学塾に通って、私立中学に受かる。それだけで公立中学、公立高校に進学するよりはるかに有利である。ゆとり教育の名のもと、カリキュラムが削られているからだ。もう一つは、義務教育である以上、あまり極端な能力別授業を行なえない、というのもある。それに学習指導要領の問題もある。制約が大きすぎる。
灘・甲陽・洛南・神戸女学院などの難関中学に進学させようとすれば、塾に行くことは必要不可欠であろう。特殊な訓練が必要だからだ。逆に言えば特殊な訓練だけで行けるのだ。だから「勝ち組」はスタートラインから違う。そのことを直視するべきだろう。「個人の能力や努力」だけではどうしようもない、というのが実感だ。
もう一つ、「待ち組」にならざるを得ない事情もある。私のもう一つの職業である研究者を見て見ると、近年の傾向として「任期制」の導入が著しい。終身雇用が崩れているのだ。「任期制」のもう一つの顔が「成果主義」である。「成果」を出さなければ「任期」が終わった時に「任期」の延長がない。基礎研究の分野では「成果」は目に見えにくい。基礎研究は衰退していくだろう。私も任期制の大学教員には抵抗がある。任期が終われば未来は無い。それならば今の塾講師をだらだらと続けて「待ち組」になろうかな、という気分になるのだ。任期制のもとでは結婚しようという気にもならないだろう。
これは大学教員という特殊な環境の問題ではない。今の「競争社会」がかかえる現実だ。「成果主義」による労働力の流動化。その中で「待ち組」という名前の「負け組」にならされている人々、それにたいして「反省すべき」と言いがかりを付けられてもなあ。