長浜幼児刺殺事件

まずはnamnchichi氏のご意見2006-02-20 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary

グループ登園と安全の確保は何ら関係がない。なぜなら、本来は親が自宅から幼稚園まで子供を送り届けるものであるから。親同士の助け合いとか、コミュニケーションと称して幼稚園が親たちに手抜きをそそのかしていたのではないか。

たかだか500メートルほどの田舎道を車で送迎というのも、違和感を覚えた。

さらに付け加えるならば、スクールバスの導入をけちっていたのではないか。確かに塾でもスクールバスを導入できるのは限られている。私がかつてバイトしていた塾でもスクールバスの要望はあった。しかし生徒数が少なくてアウト。かなりの人数にならないとペイしない。運転手の人件費とバスの整備費だけで数百万かかる。私が今バイトしている大学のスクールバスも(自粛)バスに委託運営している。スクールバスは金がかかるのは事実だ。だから園側が出来ない、というのもわかる。しかしその幼稚園が長浜市立であることを考えると、グループ登園という「手抜き」は市の方針であった、という気がする。スクールバスを市として導入することをも「手抜き」したのではないだろうか。
さらに「親同士の助け合いとか、コミュニケーション」ということに関してこれまた興味深い意見を見た。

殺人は良くない。それは大前提なんだけど、そこまで追い込まれた過程には同情を禁じ得ない。殺人事件を起こした中国籍の母親は集団登園を嫌がっていたんだそう。そりゃそうだろう。(中略)危険信号は集団登園を嫌がっていたところで既に出ていた。親に負担を与える方法でなく、幼稚園バスのような方法をとっていればこの様な事件は起きなかったかもしれないと残念に思う。

私の意見と同じ、というよりも私の上記の意見は、この意見に触発されている。「憶測」が正しいかどうかは別にして、少なくとも容疑者にとってそう映った可能性はある。「親に負担を与える方法」への疑問という点で、上記のnamnchichi氏とこの意見は相通ずるところがある。もちろん「憶測」に関してはこれまた議論があるだろうが、少なくとも事件の背景の可能性の一つとして考慮する意義はあるだろう。
もう一つ、これまた重要な提言。brotherjin氏の意見◆木偶の妄言◆

今回の事件ではみな判で押したように本名の中国名で報じている。僕は何もこの容疑者が中国籍だったということを隠せと言っているのではない。しかし、これまでの実例を考えれば、彼女が日常で使用していたはずの日本名を優先して「日本名(本名・中国名)容疑者」と報じ、その後は「日本名容疑者」で通すのが首尾一貫とした態度ではなかろうか、と思うのだ。
僕はこの中国名容疑者呼称にきな臭さを感じる。
最近ネットでよく見られるのが、犯罪容疑者が外国人だった場合は、それを明記せよ、という声の大きさと強さだ。
朝日新聞は通称主義を通していたために、「中国隠し」「朝鮮の新聞」などの攻撃を受けることが多かった。その朝日新聞も今回の事件で本名主義に転じた。いや、本名主義というのは正しくない。「本質主義」へ転じたのだ。
なぜ、上田建二郎ではなく、不破哲三にし、山田勇ではなく、横山ノックで報じるかといえば、事件を起こした人の背景が本名よりも読者に伝えやすいからだ。
そして、実際に使われていた通称より、本名で報道することを求める人々は、中国名や韓国・朝鮮名で報じる方が事件の背景を説明できると考えているのではなかろうか?

このエントリに対して多くのコメントが付されているが、通読していると疲れる。ここでも私自身の象徴的貧困によって、違った価値観を持つ人々とは対話が出来ない、と感じる。価値観とは、右、左ではない。あまりにも「体感」を絶対視する人々だ。「あなたはいろいろと理屈をお持ちなのかもしれません。私は素朴な道理を感じるのみです」とか「単に、中国人、朝鮮人の犯罪者が異様に多いことを認識し、それに備えることは、人間として普通の防衛本能だと思う」という人と何を話していいのかわからない。
社会科学・人文科学の分野で決して口にしてはならない言葉がある。「素朴な道理」とか「本能」だ。それで説明すれば何でも説明できる。思考停止になる。思考停止に陥ることは何よりも危険だと思う。
追記
serohan氏の次の集団登園に関する議論を今朝見つけたhttp://d.hatena.ne.jp/serohan/20060221#p1。集団登園の孕む危険性を的確に指摘しているように思う。

地域での助け合い、親同士の互助精神、それらから発したものかと思っていましたが、「公立幼稚園」での方針と聞き、行政の怠慢を、単に保護者に押し付けただけ?と思ってしまう。
行政が主導して、親同士の親睦をはかるなんて、越権行為ではないのだろうか。
(中略)
グループ通園によって、その家庭ごとの育児に対する姿勢の多様性を認ず、画一化されていく可能性が大きいのです。
親によって、「待つ親」と「待てない親」とがいます。子供が着替えを自分で済ませるまで、手出しをせず、急かすこともせず「待つ親」に対して、「早くしなさい」「きちんとしなさい」を繰り返す「待てない親」は、「だらしない親」のレッテルを簡単に貼ります。そして、幼稚園・小学校などの保護者の中心的役割を担うのが、「待てない親」たちです。てきぱきと家事育児をこなす彼女達は、保護者同士の付き合いも、てきぱきとこなします。そして、「待つ親」達へ、自分達と同じような育児方法をとり、幼稚園内・小学校・町内への行事への参加を求めます。
(中略)
グルーブ通園は、管理思考の強い親による仕切りに、否応無くあうこととなります。子供たちのいじめの、虐める側の自覚がほとんどないように、親たちも無自覚なまま、虐めが起きているのではないでしょうか。寧ろ誰某のために「言ってあげている」「遣ってあげている」の意識をもちながら。これは、小学生の女の子の中にも、多く見られます。(ほとんどが、余計なお世話・要らぬ口出しで、相手を狼狽させるだけなのですが)。これらが昂じて来ると、スポーツ少年団・塾の送迎、それらへと先送りされていきます。「自分の子供の面倒」を見るのでも精一杯なのに.........へと感情がエスカレートする場合も、あるのではないでしょうか。
あくまでも「グループ通園」について語っているのであって、今回の殺人を容認する訳ではありません。でも、似たような事件は、これからも起きないとは、言い切れない時代になっていると思うのです。

特に最後の一行は大事で、あの事件で誰も容疑者のやったことは弁護できない。しかし当事者でない我々が出来る事は、あのような悲惨な事件の背景を考察し、似たような事件を再び起こさないように努力していくこと以外にはないのではないだろうか。